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気まぐれに書評とか。

『「欲望」と資本主義』

 資本主義とは何なのか。この問いは難しい問いだ。システムの中にいると、往々にしてシステムそのものについての考察をやめてしまうのは人間の性だろう。しかしあえて自分を取り囲むシステムについて考察すると、本質を発見できるのもまた事実である。

 私たちを囲むシステムは、おそらく数えきれないほどある。代表的な例は、物理法則を始めとする自然法則だろう。最近では複雑系やカオスといった言葉が盛んに飛び交うようになり、かならずしも線形で表せるシステムではないものの、しかし物理法則は今でも私たちを見えない形で囲う代表的なシステムの一つである。

 もうひとつ、身近なものを例としてあげるとするならば、経済があげられるのではないだろうか。現代社会は経済によって動いていると言っても過言ではない。それは、もちろん実体経済もそうであるが、金融市場のような直接手に取ることのできない経済も含む。私たちはこうしたシステムに、時に翻弄されながら生きている存在である。

 そして、こういったシステムの中に生きていると、ついついシステムの存在を忘れる。忘れ、いつの間にか翻弄されるようになっている。システムは権力と似ている。権力も、見えないところから人々に力を加え、人々の行動を基底する。権力は見えないからこそうまくいく。同様に、おそらくシステムも、多くの人々に気づかれないからうまく回っているのだろう。気づいてしまったら、みんなが自己の利益を追求して抜け穴を探し出し、結果としてシステムは破綻へと向かうからである。

 ところで、先に経済システムをあげたが、さらに経済システムについて掘り下げて考えてみると、資本主義と社会主義というものに行き着く。いや、ほかの説・主義もあるかもしれないが、今日は話を単純化するのと、僕があまり詳しくないのと、書評が目的であるから資本主義の話を特に掘り下げることにする。とにかく、今日は資本主義の話を少ししたいと思うのだ。

 資本主義はまずどういう原理かを考えてみたい。資本主義の担い手は2人いる。一人目は資本家。彼らは、資本、土地、お金etcなど、あらゆる富を保持している。もう一人は、労働者だ。彼らは労働力という自らの価値を商品として提供することで、資本家から賃金を得る。ここまでは基本的な図式だと思う。

 しかし、ここからが重要で、資本家は自由にお金を使うし奢侈品も買うだろうが、労働者はでは何を買うのか、という話になる。ここでマルクスは「生活必需品のみを消費する」という議論を展開するのだが、これは現代では当てはまらない、と本書でも指摘されている。現代の労働者の代表格はサラリーマンだが、サラリーマンが果たして生活必需品しか買わないのかというと、決してそういうわけではない。彼らだって奢侈品を消費するし、ゲームなどのなくても生活に困らないものを購入する。マルクスの「資本家」「労働者」の対立軸という図式はすでに成り立たなくなってきており、「消費者」という観点を考慮する必要があるのではないか、というのが出発点となる。

 本書では、この社会主義における「消費者」の抜けをまず指摘する。なぜ消費者が社会主義に存在しなかったかというと、彼らの消費はすべて計画当局が決めたとおりにしかならなかったためである。したがって、社会主義では必需品までは生産されるが、余剰品は生産されなくなる。

  一方で資本主義にはそういった制限はついていない。だから、資本主義は発展できた。しかしここには論理の飛躍がありそうなので少し補足したい。

 私が思うに、人間というのは元々何かしら強い欲望を持っている生き物であるが、社会主義経済では「計画当局」という存在によって、その欲望の発現が抑制されていたに過ぎないのではないか。だから、社会主義では必需品以上の物は生産されなかったに過ぎない。

 一方で資本主義には欲望の制限となるものがほとんどなかった。上から計画を規定されることもなかったため、人々は思うがままに生産することになる。そして、その思うがままの生産によって余剰品が発生し、結果としてその余剰品を「消費しよう」という欲望がまた生まれ、消費し、また余剰品を生産し…という流れが生まれることになる。これが、資本主義の根本原理だろう。*1

 では、この「欲望」はなぜ生まれるのか。本書に紹介されていたジンメルという思想家の議論がとてもおもしろかった。欲望は、ジンメルによれば、「人があるものを欲しがるのは、それが簡単には手には入らないからだ」という。つまり、「人とモノの間に「距離」があるからだ」というのだ。言葉に直してみれば、なに、当たり前のことと思うかもしれないが、誰もが納得するのではないか。欲望は、自分と対象とに距離があるからこそ発生する。男と女には距離があるから欲望が発生する。良い物を人間が欲するのも、自分との距離を感じるからなのだ。

 彼の議論は、広告が発達した現代社会でも十分通用する議論だと思う。ボードリヤールの記号消費という概念でさえ、結局は商品の打ち出すイメージと自分の現状とにギャップを感じるから、欲望を喚起できるのだと換言できてしまう。なるほどな、と思った。

 このような特製を持つ「欲望」が原動力となり、資本主義は終わることのない運動を続けているのである。そして、今後もそれは続いていくのだろう。

 ここで、本書への疑問を少し提示してみたいと思う。

 まず一つ目は、バタイユの「過剰を処理する」という議論が持ちだされていた部分についてだ。資本主義においては、余剰品の生産が必ず起こるという議論は先にした。本書ではバタイユの議論を援用し、余剰品の生産について「過剰を処理する」という人間の本能によるものだと説明している。だが、「過剰を処理しなければならない理由」が示されていなかったように思う。なぜ、過剰を処理しなければならないのか。ポトラッチにおいては、過剰の処理は権力の誇示だという説明があった。現代の過剰処理の代表例は戦争だと言う。なぜ、戦争によって過剰を処理しなければならないようになっているのか。この点は疑問に思った。もっとも、経済学の均衡原理を使えば説明できそうだが。

 もう一つの疑問は、この本を2010年版にアップデートするとどうなるのだろうか、という点だ。本書で著者は「現代の新しい技術のフロンティアが欲望のフロンティアと乖離し始めた」という。しかし、これは本当なのだろうか。新しい技術の一例として、ARなどの仮想空間技術があげられていた。これは、当時は「何のためにあるのかよくわかならい」ものの一例だったようだ。しかし2010年代に突入して、オキュラスリフトという仮想空間を生成できるツールが一般に普及し始めている。オキュラスのすごいところは、プレイ中のゲームの空間の中に自分がいるかのような感覚を喚起できるところだ。これは、ゲーマーたちの夢という名の欲望を実現する手段となった。だから、2010年代においては、技術のフロンティアと欲望のフロンティアは長期的に見ると結びつく運命にあると考えるのが自然なのではないだろうか?

 もっとも、この本は1993年に書かれたもののようだ。まだインターネットも普及していない頃に書かれた本である。現代と幾許か違う点があるが、それはそれで考察の余地があって楽しめる一冊だと私は思う。

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

 

 

*1:だから、おそらくヴェーバーの言う「まじめに働いたから資本主義が発展できたんだよ!」という議論は違う。ヴェーバーの議論と本書での議論のどちらが正しいかは、想定する人間像の違いでしかないから無意味ではあるが。とにかく、資本主義を生み出した人間という存在は、もう少し邪な存在なのだ。