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気まぐれに書評とか。

ある程度は染まったほうがうまくいく

日本では「宗教」ということばには、マイナスイメージがある。同様に、「染まる」ということばにもマイナスイメージがある。

しかし、本当に「染まる」ことを忌避してしまってよいのかと思うときがある。というのも、「染まる」というのは異なる価値観や視座の受容であり、それは自分の革新や成長につながるともいえるからだ。

もっとも、自分を失くして「染まる」のをよしとしているのではない。自分を失くさないまま、しかし多くを受け入れるような「染まる」はいいと思う。「守破離」は、「染まる」ことの大切さを示したいい例である。

守破離の守とは、師の所作を完コピすることだ。これはある種自己流を徹底的に排除して一流を真似ることと同じである。だが、完璧に真似ることで、少しずつ師の行為に含まれる哲学や意図を感じ取り、次の「破」の段階に進めるのだ。

破とは、師の所作の裏側に隠された哲学や意図を感じ取り、少しずつ自分の所作をパワーアップしていくことである。単なるモノマネだったものが、そういった微妙なニュアンスも含めてホンモノのモノマネになる。これを繰り返し、次の「離」の段階に進む。

離とは、すなわち師から離れた自己流の完成である。ここまでこればいわゆる一流の領域になる。離は、守と破を着実にこなした者にしか訪れない段階である。すなわち、コピーの段階はとても大切なのだということである。

そしてそのコピーの段階こそが、「染まる」段階ではないかと私は思う。だいたい初心のうちに自己流に固執しているあいだは、自分の小さな枠の中に閉じこもっている証拠である。一度一流の師や人生の先輩から学ばなければならない。一流の哲学に触れ、自分の殻を打ち破らなければならない。学ぶは「まねる」である。コピーは学ぶ段階においては欠かせないプロセスだ。

私も新しい仕事をはじめる際、「完コピ」をまずは大切にしている。いつかは抜けださなければならないのだけど。だが、基礎なくして応用はありえない。

だから、「染まる」のは悪いことではないし、むしろ自分を鍛えるいい機会である。一方で、染まれない人はまったく成長しないといっても過言ではないと私は思う。