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気まぐれに書評とか。

2016年上半期、読んでよかった本

長期休暇につき、たまには本のことを思い出して書かねば、という思いに駆られて書く。あまりいい言葉ではないけれど、今年は本当に忙しく、本を読む時間が電車の往復30分間だけ、という時期が数ヶ月続いています。したがって読んだ冊数も少ないですし、疲れて半分寝ながら読んでいた本もあるので、内容を覚えていないこともしばしば。

最近こんな記事を見かけました。半分あたっていて、半分あたっていないと思います。しかし、参考にはなります。

結論からいうと、デキるひとたちは集中したインプットをしています。 みんながみんなというわけではありませんが、頭の回転がすごいひとというのは事前に膨大な量のインプットをまとめて行っている可能性が高いです。 取り組む前にまとめてインプットしておくことで全体像を把握でき、また勉強にかかる時間も減らせる。 彼らはあまり語りませんが、実は裏でやっているというパターンがほとんどです。

デキる人の勉強法 優秀なプログラマは何をしているのか - ケーススタディの人生

この記事内で忘れられていることが1つあります。それは、集中したインプットを可能にするのは、日々の継続的なインプットである、という前提条件です。集中してインプットするということは、短期間に大量の概念を学習するということです。しかしそれは、普段ろくに勉強をしていない人には不可能な話です。

だから、継続的なインプットをし続けるためにも、寝ながらでもいいからとにかく文字を読むことが大切ではないかと思っています。そして、すぐには役に立たないかもしれないけれど、将来的にいつか役に立つかも、という意気込みで最近は本を読んでいました。そんな上半期の良かった本8選です。

とくにテーマがあって選んでいるわけではありません。「いい本」の基準は、どうやら読んだ時期によって違っているようです。もっとも、「いい本」はかならずしも役に立つ本ではないし、何かの役に立たせるために本を読んでいるわけではありませんが。

  1. 『職業としての小説家』

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

数々の小説を世に送り出してきた村上春樹の書く、ある種の自伝です。有名すぎる本かもしれません。この本から非常に多くの影響を受けたように思います。優雅に見える村上春樹ですが、しかし裏ではかなりの泥臭い勝負をしていた事実が明らかにされます。村上春樹はどちらかというと計画的に物事を進める方ではなく、自分の感性に任せて思いつきで進める方なように感じました。私も村上春樹と同じようなタイプなので、共感できるところが多々ありました。

何かを極めるには、1冊の本になるくらい思考できなければならないんですね。改めて、一流に上り詰めた人のすごさと強さを感じた一冊でした。

  1. 『BCGの特訓』

BCGの特訓 ―成長し続ける人材を生む徒弟制

BCGの特訓 ―成長し続ける人材を生む徒弟制

3回くらい読みなおした本。今読みなおしていたら、また読みたくなってきた。BCGはほぼ同業者なので、参考になることがとても多かったです。この本にかぎらず、成長する人、成長して一流に上り詰める人にはどうやらこの一文が共通して当てはまるような気がします。

BCGには、頭を使わず、ただこなすだけの作業は存在しない。

  1. 『「社会調査」のウソ』

世に言う「アンケート調査」がいかに怪しく、根拠に乏しいものかという話。さまざまな新聞のアンケート調査(筆者はそれを、「ゴミ」と呼ぶ)の欺瞞をつまびらかにする本。非常に影響を受けた。すくなくとも、新聞やネットのアンケート調査結果を疑って見る目はついた。

アンケート調査の大半は、「バイアス」を免れていないように思います。それはアンケート調査するターゲットに問題の大半があるようです。サンプルが少なすぎたり、サンプルを考えなしに選んだ故にサンプルの属性が偏っていたり、あるいは、自分の考えた結論を適当に裏付けたいがために、そうなりそうなサンプルを選んでいたり。テレビに多いですね。

  1. 文化人類学への招待』

文化人類学への招待 (岩波新書)

文化人類学への招待 (岩波新書)

いつか時間ができたときに、徹底的に学んでみたい分野、「文化人類学」。現代の社会問題を考えるときに、まずまっさきに考えるべきだと思うのが、「そもそも人間って、どういういきものなんだっけ」ということ。この視点って仕事をしているとどうしても忘れられがちなのですが、大事だと思うんですよね。仕事の場面では、常に理性を偏重することを求められるのですが、案外それが働く人を苦しめていたりする。そんな視点を提供してくれるのが、この文化人類学だと思っています。

あと個人的には、フランス現代思想のポスト構造主義あたりを深く理解するためには必須かもなあという考えから、読んでみました。

  1. 純粋理性批判

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

学生のときは特定の章だけしか読んでいなかったのですが、3週間くらいかけて通読してみました。思った以上にしんどい。いろんな概念が登場してきて、それらを整理しながら読まないとダメです。時間ができたときにじっくり再読しようかと思います。

アプリオリな総合判断は可能か、というのがこの本の主題なんですが、そもそもアプリオリなものって存在するんですかね。結局人間がいないとあらゆるものは存在しているとは言い切れないと思うんですが。でもそうすると、惑星とかのように人間が出現する太古からあるものはどうやって考えればいいんでしょうか?「存在」という言葉にそもそも誤りがあるんでしょうか?あるいは、言葉の限界なんでしょうか?そんなところを考えさせられます。

  1. 『実践ドメイン駆動設計』

実践ドメイン駆動設計

実践ドメイン駆動設計

これを読んで、とりあえずウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を思い出した。結局、チーム内の言語ゲームを理解しないと大規模システムの構築はうまくいきそうにないなと。そんなことより、個人的にはRepositoryとかEntityとか、そういうスニペットが非常に役立っています。コードを読むときに非常に役に立っています。一読の価値ありです。

  1. 『ギリシア人の物語』

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

古代ギリシャ好きにはたまらないですね。テルモピュライの戦いのところがやっぱ最高でした。これぞ塩野クオリティ。今年の年末にもまた出るんですかね?もちろん買いです。

  1. 『国家はなぜ衰退するのか』

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家間でなぜ貧富の差があるのか?その謎を解き明かす一冊です。個人的には、私有財産制の重要性を思い知らされました。

Mac OS XでPython2.xからPython3.xに切り替えた話

少し手元でPythonを使いたいタイミングが生じてきたので切り替えを行ったのですが、結構面倒だったのでメモします。いい方法を知らないだけかもしれませんが。今年の3月くらいに自宅用のMacBookProを切り替えたのですが、Pythonのバージョンを確認したところバージョンが2.7で、3.x系を使いたいけどどうすればいいんだろう・・・?と思って色々調べたまとめです。

なお、今回はpyenvを使用しますが、システム本体のPythonバージョンを引き上げればよいのでは・・・?という向きもあるかもしれません。しかし、システム本体のPythonを引き上げてしまうと、3.x→2.xに戻したい際に手間がかかるのと、色々ハマるらしいのでやめました。実際、pyenvで切り替えを管理するほうがはるかに楽だと思うので、そちらをおすすめします (2017-07-10追記: anaconda を使う手もあります。というか、最近はそうしてしまっています。)。

まずやること

当たり前ですが、この作業を始める前にひとつだけ確認事項があります。Pythonのバージョンを確認しましょう。

python --version

これで、Python 3.x.xと返ってきていれば、この作業はまったく必要がありません。一方で、Python 2.x.xと返ってきてしまった場合は、この作業が必要です。

手順

下記の手順で行えば、まともに動くかと思います。

  1. Homebrewをインストール:今回の記事では割愛しますが、インストールが必要です。
  2. pyenvをインストール:Homebrewを使用してpyenvを入れます。
  3. pyenvを使って、Python3.x.xをインストール:コマンドひとつです。
pyenvをインストー

Homebrewがインストールされていれば、下記のコマンドを打つだけでインストールできます。

brew install pyenv

しばらくすると、インストールが完了した旨のメッセージが出ます。念のため、下記のコマンドを打つと確実です。pyenvが入っていれば、バージョン情報が表示されます。

pyenv --version

それを確認できたら次の作業に進みましょう。

pyenvを使って、Python3.x.xをインストー

pyenvを正常にインストールできたら、次は環境変数を通す必要があります。結構面倒な作業で、初めてやるときは苦戦しますので、丁寧に見ていきます。

.bach_profileがあるかどうかの確認

まず、手元の環境に.bash_profileというファイルがあるかどうかの確認が必要です。ここに環境変数を設定しますので、このファイルが存在しなければ作成する必要があるためです。次のコマンドを打つと確認できますので、目視で確認してください。

cd ~
ls -la

もし、.bash_profileがなかった場合は、次のコマンドを打って.bash_profileを作成します。勝手に作っても問題はありません。

touch .bash_profile

完了したら、作成できたかどうかを確認します。

ls -la
環境変数を通す

vimを起動して、下記のコードを.bash_profileに書き込みます。

export PATH="$HOME/.pyenv/shims:$PATH"

vim:wqコマンドで保存します。そして、忘れてはならないのですが、.bash_profileに設定した内容を即刻反映させないと、あとの作業で「あれ?環境変数が切り替わってないぞ?」となってしまうので、下記コマンドを打って変更内容を反映させましょう。

source ~/.bash_profile

最後に、下記コマンドを打って正しく設定されたかどうかの確認作業をします。

which python

ここに、pyenvのパスが表示されていれば正常に設定完了です。

インストール可能なPythonの確認と、インストー

インストール可能なPythonのバージョンは下記コマンドを使用して確認。

pyenv install -l

次に、欲しいPythonのバージョンを決めてインストール(今回は3.5.0が欲しかったので、3.5.0をインストールします。他のバージョンでも同様です。)

pyenv install 3.5.0

このコマンドを打つとインストールが始まりますので、しばらく待ちましょう。通常終了した場合は、次のコマンドを打って、使いたいPythonのバージョンを指定します。

pyenv global 3.5.0

あるいは

pyenv local 3.5.0

globalを指定すると全体に適用でき、localを指定すると特定のディレクトリに対して指定できます。

(2017-07-10追記) 反映がうまくいっていなさそうな場合、pyenv rehashを打つとバージョンの変更が反映されます。

設定方法は以上です。

知っておきたい「お金の教養」

最近生命保険の営業を受けたり、周りの結婚話を聞くようになってきました。それを聞くたびに、歳を重ねたなあと感じると同時に、「意外に世の中のことがわからないぞ」という不安に駆られてきます。そんなこんなで、随分前にライフネットの出口さんが講演中に「今度、若い人向けのお金の本を出すから読んでみてよ」と言っていたことを思い出し、読んでみました。

「お金の教養」というと、どうしてもファイナンシャルプランナーの試験のような、○○金はこうで、○○保険はこうで・・・というような堅い内容を想像しがちですが、この本は少し毛並みが違います(逆に言うと、そういう内容を望んでいる方には物足りないかもしれません)。この本は、人生の先輩が、若い人に「こういうふうにお金を考えるといいかもね」と教えてくれる本だと思います。「考え方」というのは、すぐには役に立たないかもしれませんが、しかし一生使えるものだと思います。その点で、私はこの本を今の時期に読めてとてもよかったかなと思っています。

普段本を読まない人にもこの本はぜひ読んでみてもらいたいです。もっとも、「考え方のひとつ」として客観的に読むのがいいと思います。出口さんもそれを望んでいるはずです。

1. よくある「若者は損をしている!?」の話

さっそくですが、みなさんは「世代間格差」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「世代間格差」とは、主に年金を受給する際の文脈で出てくるものですが、自分たちが支払った保険料に対して、そのもらえる年金の総額に世代ごとに格差があることです。要するに、今の60代は払った額に対して4倍の年金をもらえるのに、今の20代は払った額の2倍の年金しかもらえない(可能性が高い)ということです。

世代間格差の議論は色々巻き起こっていて、経済学者がいたるところで論じている話題でもあり世間的な関心度も高いと思います。しかし、この問題は結局感情論にしか終始しないと思っていました。なぜなら、日本は1970年代とか1980年代と比べて、人口も減少していくに決まっていますし、GDPも確実に下がっていくことが目に見えているからです。そんな状況下で、もらえる年金の総額が増える(あるいは、上の世代と同じくらいもらえるようになる)なんてことはありえません。ありえない話を望むとき、どうしても私怨以上のものは生まれなくなります。だから、感情論にしかならないのです。

この世代間格差を考えることは、経済学者の飯の種にはなるかもしれませんが、私たちのような一般人が毎日ウンウンと考えていてもどうしようもない話なのです。

出口さんも、本書の中で「世代間格差は諦めよう」という話をしています。「大切なのは、できないことを考えないこと。つまり『解』にならない悩みは捨ててしまう、ということです」と言っています。まったくそのとおりだと思います。私たちのような個人が世代間格差をいくら考えたって、解決しようがありませんので。厚労省などに務めている、ということであれば別ですが・・・。

2. 大切なのは「調査」と「比較」

世代間格差に象徴されるように、今の若い人は私たちの上の世代の人たちの若いころと比べて、相対的に収入が少ないです。世の中の人たちは、若者の○○離れと言って若者に「もっとお金を使え」と煽りますが、なんせ使う元手がないのですから、そのような贅沢品にお金を使っている余裕がありません。

私の同期など、周りの人たちもそうなのですが、みんな「いかに安いものを買うか」ということに腐心しています。みんな節約して貯蓄しています。そのような中で問題になってくるのが、「倹約しつつ上手に物を買うためにはどうすればよいか?」ということです。これに関して、この本では少し話が出てきます。

物を上手に買うためには、「調査」と「比較」が大切だと言います。節約して貯金をするためには、少しでも物を安く買う必要がありますが、その際に重要になってくるのが「調査」と「比較」。「同一商品や同一サービスは、比較して価格の安い方を選ぶ」が鉄則です。当たり前の話なのですが、意外にやっていない方も多いのではないでしょうか。私も時々やらずに後悔することがあります。「しあわせにつながらない消費すなわち浪費は、できるだけ削っていきましょう」です。

3. 独身のうちから生命保険に入るべきか?

倹約・節約するうちに気になってくるのが「固定費」の問題です。ファイナンシャルプランナーにくる相談の中でも、特に「固定費の削減」というテーマは大きなテーマになっているそうです。固定費を削るために考えられるのは、電気代、水道代をはじめとする光熱費や、ネット料金など・・・。しかし、光熱費を削るにも限界がありますし、ネット料金などの通信費は、格安SIMなどを強引に使わないかぎり、どこの会社と契約しても大きくは変わらないです。

ところで、固定費の中には将来のために重要なお金も含まれます。それが「保険料」です。そして、保険料の見直しもまた、ファイナンシャルプランナーに多い相談のひとつだそうです。保険に入るなら少しでも安い保険がいい。そう誰もが考えるはずです。

生命保険は一般には結構な額です。私も生命保険の営業を受けてから調べてみましたが、1万〜2万程度してしまいます。住民税より高いのです。手取りが30万円にも満たないのに、そこまで大きな額を払うとなると、飲み会や旅行を何回も我慢しなければならなくなります。そんな人生、少し嫌だなと個人的には思います。若いころの方が、体力も気力もあります。その若いうちに、人生を楽しんでおきたい。そう思うのは自然な発想です。

日本では若いうちから生命保険に入っておく、というのがある種の人生のロードマップみたくなっている節がありますが、ヨーロッパなどではそうではないようです。ヨーロッパなどでは、どちらかというと「就業不能保険」の方が、若いうちに入る保険としてはメジャーなのだそう。生命保険の営業マンに就業不能保険のことを聞いたら、「なんですかそれ?」と言われてしまいました。トホホ。そのくらい、日本では知られていない保険、ということです。

就業不能保険というのは要するに働けなくなったときのための保険だそうで、一時的に休業が必要となった段階から毎月一定の額が支払われるそう。調べてみたところ、月に15万〜20万くらいの収入を保証してくれる保険だそうです。生命保険ほど手厚いわけではありませんし、「自分が働けなくなった場合」を限定的に想定した保険ですから、家族がいないうちにしか使えません。しかし、独身であるうちはこれで十分、と考えることもできます。月額3000円程度のものがほとんどで、とても合理的な保険です。

結論: 貯金をしながら自分の好きなものにお金を使うために

日本人の美徳として、とにかく貯金をしろ!結婚しても、子供が生まれても、子供が巣立っても、貯金をしろ!マイホームを買って、自動車を買うために!というものがあります。しかし、それはこれからの時代も通じるかというと、そうでもないと私は思います。

ダーウィンの進化論などを見てもわかるように、これからの時代を賢く生きるために重要なことは、とにかく変化に柔軟に対応できるようにする、ということでしょう。そういう生物がこれまでも生き残ってきました。「適応」こそが、これからの時代の美徳となるべきものです。

変化に柔軟に対応できる家計をもつためには、どうすればよいでしょうか?ひとつは変動費を増やすことです。逆に言えば、固定費をできるだけ削っておくことです。変動費はその名の通り変動させられます。したがって、自分のコントロール下に置きやすいです。あらゆる契約を行う際に、「柔軟性がどれくらいあるか?」を考慮すべき、ということです。

そして固定費を削るためには、お金に関する知識が必要不可欠になってきます。お金に関する知識を増やすとは、たとえば保険に関して言えば先ほど書きましたとおり、「生命保険」一択に見える保険も実は、ライフサイクルのフェーズごとに使い分けができることを知るなどといったことです。要するに、「調査」と「比較」を丁寧に行うということでしょう。必要のない時期に無駄なお金を消費しない、ということです。

一方で、生命保険には安心料の側面もあります。貯蓄型であれば、その会社が潰れないかぎりは満期でお金が返ってきます。掛け捨てではそれがないため、少し不安になります。柔軟性を高めるということは、リスクの高さを受け入れるということでもあります。ボラティリティの高いマーケットほど、より儲かる確率も損する確率も高まるのと同じことです。

もっとも、「変化に対応できる未来型の柔軟な家計」と「これまでの日本人がやってきた一般的な家計」のどちらがよりリスクが少ないか、というのは神のみぞ知る話です。日本で突然資源が取れ始めて、日本が急成長する可能性もなきにしもあらずです。それこそ、「大切なのは、できないことを考えないこと。つまり『解』にならない悩みは捨ててしまう、ということです」なのかもしれません。

『国家はなぜ衰退するのか』上

大学生の頃に出版された本だったが、最近まで読めずにいた。しかし最近になって文庫化されていて、ぜひ読んでみるかということで読んでみることにした。感想としては、非常におもしろい!以外の言葉が出ない。まだ上巻だけど、ひとまず感想を書きたくなるくらいにはおもしろい。

本書の中心的な問いは、「なぜ裕福な国と貧しい国の間には、これほどまでの収入と生活水準の格差があるのだろうか?」ということである。そしてアセモグルたちが本書の中で語るのは、「その国が経済的に豊かかどうかは、その国が採用した政治制度によって決まる」というもの。私有財産をきちんと認めたり、競争を自由に促すような政治制度を導入した国は経済成長が起こって裕福になり、それをしなかった国は貧しくなる、というものだ。具体的に筆者は、前者を包括的経済制度の導入と呼び、後者を収奪的経済制度の導入と読んで対比する。

包括的経済制度の導入例のほとんどは、じつは今の先進国である。アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ、そして日本などは全部、包括的経済制度を早期に導入したがゆえに、今の地位を築き上げている。一方で、収奪的経済制度の導入の例のほどんどは、今の発展途上国である。最近になってたしかに発展途上国は目覚ましい成長を遂げているものの、たとえば100年前の中国は収奪的経済制度を導入していたがゆえに、停滞していた(もっとも、中国も現在は包括的経済制度を導入し、爆発的な成長を遂げている)。

包括的経済制度というのは、本書ではあまり詳しくは書かれていないけれど、おそらく次のことをいう。私有財産を認め、自分の財産が他人から強奪されることのない安全な状態。その上で国民は自由に商業活動を行え、そこで獲得した富をすべて自分のものとして保持できること。保持できるがゆえに人々は自由に競争し合い、イノベーションを起こそうと切磋琢磨すること。いうなれば、近代以降ヨーロッパやアメリカなどでスタンダードとされた経済制度をしくことである。

収奪的経済制度というのはその逆で、私有財産は認められておらず、財産を保持したとしても支配者もしくは政府に強奪される可能性のある状態をいう。商業活動は自由かつ安全には行えず、賄賂などが横行している。結果としてイノベーションなどは起きない。江戸時代以前の日本や、今の北朝鮮などがそれだと言える。

各国間の貧富の差を説明するものとしては、『銃・病原菌・鉄』で語られたように、その国の位置する場所によって決まるという地理説などがあるけれど、アセモグルは地理説を批判する。具体的にはアメリカの国境沿いにある街をひとつ例にとり、数キロしか離れていないのにこれだけ貧富の差があるのは、アメリカは経済成長が可能な制度を導入したからで、メキシコはそれをしなかったからだ、と説明する。

このアセモグルたちの主張は、各国間の貧富の説明の新しいスタンダードになるかもしれない。一方で、ダイアモンドの地理説のような奇抜さはなく、読んだ人は「まあ、そうだよね」という感想を抱くかもしれない。みんな気づいていたけれど、なぜか意識的に外していた問題を、アセモグルたちは再び表舞台にのぼらせたという印象を受ける。

で、本書の内容は実は以上なのだ。このシンプルさがまた読みやすい。あとは延々と具体例が続くのだが、世界史の復習にもなってちょうどいい。取り上げられる国々は多種多様、歴史上の国も当然取り上げられる。ローマ帝国から産業革命前のイギリス、コンゴやジンバブエ、そして日本も取り上げられる。

ただ、である。あえてわかりきっている陳腐な問いをいくつか立てておこうと思う。アメリカの天才たちが考えることだから、この手の問題に対してはすでに反論が考えられているかもしれない。いつかアセモグルが来日して公演するようなことがあったらぜひ聞きたい、そんな質問を立てておこうと思う。

まず1つ目は、「ではなぜ、現在経済発展を遂げている国は包括的経済制度を導入できたのか?」という問題である。この点については、本書ではあまり深く掘り下げられていない。もちろん、各国ごとに個別事情があることは承知である。だが、各国が包括的経済制度を導入できたのは、「運」以外のなにかしらの要素があるはずだ。たとえば、階級間の移動が思った以上に簡単にできる社会構造だったとか、そういう理由があるはずである。その点について、ぜひ研究調査が進むといいと思う(下巻に書いてあるかも?)

2つ目は、「じゃあ包括的経済制度を導入できなかった国々は、包括的経済制度を導入できさえすれば、今の先進国が今より貧しくならずに発展途上国が今の日本くらい豊かになれるの?」という問題である。これはどうなんだろうか。*1これは究極の問いだ。なぜなら、経済はトレードオフと相場は決まっていて、どこかの国が今より豊かになるとすれば、どこかの国が今より貧しくなるのは確実だからだ。そして、この問題が解決されないかぎり、アセモグルが解き明かしたかった「貧富の差」の問題は謎に包まれてしまうことになる。そして今のところ、本書ではこの問いに対する答えは書かれていないように見える。

3つ目は、「地理説はそんなに簡単に否定できてしまうものか?」というものである。結局1つ目の「なぜ包括的経済制度を導入できた国々は導入でき、そうでなかった国々はそうできなかったのか?」という問いにつながってくるけれど、この問いに対する答えを供給する有力な手段として、依然地理説は残り続けると思う。包括的経済制度を導入できた究極の答えはおそらく、エリート層が簡単に自分たちの欲しい資源を独占・収奪しなくとも手に入れられた、というものになるだろうけれど、それが実現可能だったのは結局その国の位置していた場所がよかったからに過ぎないし、その国で栽培可能な作物が、無理をしなくとも潤沢に生産可能だったからだろう。そのように、人間が最低限生命を維持できる余力があったからこそ、エリート層は資源を独占・収奪せずに済み、結果として大衆の要求をのめる余裕が生まれたはずである。だから、包括的経済制度を導入できた、とも言えるのではないだろうか?

締め方がわからなくなってきたが、一旦上巻を読みきったので疑問をメモがてらおいておこうと思う。

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

*1:今の日本くらい豊かになれるというのは曖昧で結構難しい定義かもしれないが、一人あたりGDPいくら以上、みたいな話だと思っていただければと思う。

『聞くだけで自律神経が整うCDブック』という本

いや、単に気になっただけである。怪しい、とかそういうことは思っていない。口コミ評判で上々そうだったので買ってみた次第。使ってみた効果については、今のところよくわからない。

私個人としては、著者の小林弘幸氏にはいくつか質問がある。

まず『聞くだけで自律神経が整うCDブック』の前提についてだが、おそらくあまり難しいことは考えたくないお茶の間の主婦あたりがターゲットなのだろう。したがって、普通の人がこの本を読んだ際に下記のような疑義が生まれてしまうのは致し方ないように思う。なぜなら、医学的根拠などを正確に説明し、それによって『聞くだけで自律神経が整うCDブック』が厚くなりすぎると、お茶の間の主婦には手にとってもらえなくなるからだ。そこは了解している。

その上で、あえて下記の質問をしてみたい。

『聞くだけで自律神経が整うCDブック』のモニター実験結果について

  1. 16ページから19ページにかけて、口コミ効果みたいな「モニター実験結果」なるものが示され、20ページにおいて「どうですか?このCDの効果を実感してもらえましたか?」という流れになっているけれど、さすがに「おいおい」と口にせざるを得ない。このあたり、どうなってるんでしょう?論拠となる論文とかあればぜひ読みたいところ。(個人的には、実験に際しいろいろモニターの条件を揃えたと思うんだけど、その条件とやらがとても気になる)

『聞くだけで自律神経が整うCDブック』に頻繁に登場する「医学的根拠」という言葉について

まず、「医学的根拠がある」とは、「学会で認められた論文がどこかしらに公開されていること」と定める。要は、論文になってるかどうかだ。

  1. 「このCDは医学的根拠をもとにしたオリジナルCD」と32ページにあるけれど、その「医学的根拠」を知りたい。論文ください。あと、1日10分聞くもよし、1日中流すもよし、っていうのはなぜなんだろう?10分流したときと1日中流した時の効果が変わらないんであれば、1曲(約3分)聞くだけでも効果があるってことだよね?その辺の実証結果はあるんでしょうか?論文ください。

  2. 「ヒーリング音楽とは違います。なぜなら、医学的根拠にもとづいて作られているからです。」と36ページにあるけれど、この「医学的根拠」とは。ヒーリング音楽との違いのところで、次頁にていろいろ記述があるけれど、これは「『聞くだけで自律神経が整うCDブック』のCD」でなければならない理由にはなりきらない。なぜなら、ヒーリング音楽においても同様の「繰り返し」みたいなものは存在するように思われるからだ。また、ヒーリング音楽否定の理由が「自律神経を整えることを目的に作られていないから」ということになっている。これは消極的な理由であって、もう少し積極的な理由がほしい。論文ください。

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ここからはあえて、『聞くだけで自律神経が整うCDブック』のCDの役割を好意的に捉える。おそらく「呼吸を整える」ところを主眼において作られている可能性はあるかなと思っている。本の後ろの方にも、呼吸に関する話が出てくる。呼吸を整えるというのは自律神経の調整には結構重要な要素で、たとえば座禅とか瞑想が自律神経の調整に効くのは結局、呼吸を整えるからとよく聞く。

だから、たとえばこのシリーズで「塗り絵」なんかも出てるみたいだけど、塗り絵も呼吸が整うよう設計された塗り絵なら当然効果がある。究極、呼吸の整う小説みたいなやつを出版しても自律神経に効くって言えるかもしれない。(そんなに「自律神経学会」が甘くないことを願うけれど)。

まあでも、この論理が正しいとすると、わざわざCDを聞かなくても、呼吸さえ整えれば自律神経の復調には大きな貢献をするのではないだろうか。その点、「普通にYouTubeで拾えるヒーリング音楽」との差異がイマイチよくわからない。

だからこそ、なぜ、この音楽たちである必要があったのか、その論拠を知りたいなと単純に思った次第である。論文を探してもどこにもなかったので、ぜひください。(検索したけど、CiNiiにしかないというオチはあったけれど、なんとか読んでみたい次第。)

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余談になるけれど、医学的根拠ってやつは、ほんとうに慎重に見定める必要があると思っている。医学というのは、どうしても一般の人には馴染みのない分野だから、騙されやすいといえば、騙されやすい。しかも、わりと勉強しづらい(っていうか、そういう本高いし、どこから手をつけたらいいかほんとによくわからない)。で、気づかぬ間に法外な金をとられることもある。

これは金融業界の人間だから思うこと、なのかもしれない。結局、こういう素人がなかなか近づきづらい業界というのは、知識のある方がどうしても優位になってしまう。素人ができることは、こうやって論理の欠陥と思しき箇所をチクチク刺して、自分で疑義を解消していくことくらいしかないのだ。

一方で、素人が医学的根拠に関してあまり口を突っ込まないほうがいいこともあると思う。結局、臨床こそ根幹であって(私の勝手なイメージ)、それをしていない素人がいくら頭で考えて医者に突っかかったとしても、「で?」という話になるのは当然だからだ。論文にはなっていないけれど、多くの人に施術してみた結果、こう言えそう、ということが山程あるかもしれないからだ。

まあその辺を考慮して、それでもこの本の効果を信じるというのであれば、それはそれでいいんじゃないかと思う。口コミで結構「効果がある」みたいな感じで広まっているのは事実。

聞くだけで自律神経が整うCDブック

聞くだけで自律神経が整うCDブック

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

追記:20160508

この手の本が気になって、本屋の家庭医学コーナーに足を運んでみたけど、ゴミの宝庫優秀な医学的根拠を持つ本の宝庫でした。万華鏡を使って健康を維持しようぜ!万華鏡はヨーロッパで生まれたんだぜ!データはこんな感じだぜ!(どうやって被験者を興奮状態にし、沈静化させたのか一切書いてないぜ!それって、ただたんに時間が経っただけなんじゃないか!)みたいな感じの本までありました。あとは、変な棒を使って視力回復しちゃうぜ!っていう本まで・・・

『純粋理性批判』ノート

*「感性」と「感覚」の違い。これを世の哲学者はどう考えているんだろうか。読む限りでは、感性→感覚の順に対象が流れ込んでいくように思えるんだけど、でもカントの書きぶりだと、感性と感覚は実は同時刻に通過するもので、しかもお互いに重なりあう箇所があるとも読める。解説書か何かで、図になったものがあると嬉しい。

*「感性」と「感覚」のあたりを読んで思ったんだが、哲学の弱点は自然言語を使ってしまっていること。結局、意味が一意に定まらない。絵にするか、数式でかきあげるかどちらかにしてほしい。でも昔の基準だと論文に絵はご法度だったのかも?よくわからないけど、なぜ哲学者は絵を使いたがらないのか不明。数式でかきあげるっていうのは相当に難しい。一番の理想は、これから出てくる概念を記号にして、それを巻頭に書いておいて、あとは記号にしたがって議論をすすめる、みたいな感じか?あるいは挿絵をはさむか。

*空間がアプリオリであることは納得がいった。カントの説明では、あるものを仮になくしてみたとして、それでもそのものが存在していた空間は残るよね、だから空間はアプリオリなんだよ、みたいな感じだったかと。たしかにその通りだ。

*しかし一方で、時間がアプリオリであるというのはイマイチ納得がいかない。カント自身も、時間のアプリオリについては口を濁しているように思う・・・。空間の議論はどの動物も同じように認識できると思うんだけど、時間については、人間以外の動物が「過去(時間が経つ)」という概念を持ち合わせているかとそうは思えないんだよね(犬は過去を感じない、というくらいだし)。だから、時間は人間がその経験の中で生み出してきた概念なのではないだろうか、という疑念が払えない。

*あと、時間概念を持ち出すとやはり「〈存在する〉とはどういうことか」が絡んできてしまう。僕の考えでは、時間と存在とは切り離しようがないものだからだ。この辺はハイデガーやっぱ目のつけどころすげーってなるけど、ハイデガーも上の「〈存在する〉とはどういうことか」について、何も結論を出していなかったりする。

*先験的論理学あたりで展開されるカテゴリー論については、やはり多くの学者がいうとおり少し無理がある。というか、このカテゴリーに分類されたそれぞれの項目が果たしてひとつひとつ本当にアプリオリなのか?という議論をする必要があるような。僕は「関係」とかは怪しいと思っていて、たとえばビッグバン以前の宇宙に「関係」は存在しうるのか?って話が置き去りにされている。

*そして、やっと今回『純粋理性批判』を読む動機となった「統覚」が登場した。統覚は悟性の上位概念、みたいな感じ?現象学で出てきてなんだこれはと思って調べたら純粋理性批判が発端とのことで。はやく続きを読みたい。

以下、余談

*あと、悟性(Verstand)の訳は「知性」でいいんじゃないかなという気がしないでもない。

*『純粋理性批判』を本格的に読みたいのであれば、ヒュームの『人性論』は必読書。ヒュームも基本的にはカントと似た議論を展開して、認識について分析を加えている(「印象」とか)。あと、デカルトは一応読んでおいたほうがいいかと思う。今回僕は、現象学を軽く学んで、その中でフッサールがカントにとても影響を受けていそうだという直観から『純粋理性批判』を読むことにしたからわりとスラスラ頭に入ってくるんだが、普通に哲学史通りこの本を読むとしたら、相当骨が折れると思う。なぜなら、新しい(ように思える)概念がわんさか登場するからだ。もっとも、ヒュームさえ読んでいれば、既知の話をより小難しくした、みたいな程度の印象で済むのだけど。

*超厳密にこの本を読むと、一生かかっても何もわからない、みたいなことになりそうなので、細かい議論の筋道はおいておいて、「概念の理解」と「ストーリー」を理解することに終始する方向で。

純粋理性批判

純粋理性批判

『イデーン』をちょいちょい読み返して思うこととか

*GW、なんだかんだちょくちょく仕事があるし、予定が入ったりして完全に暇というわけには行かないけれど、おおよそ暇なので普段じっくり読めない哲学書を読み返す。今回は『イデーン』を軽く読み返した。

*正直、『イデーン』は、現象学の概念の整理編といった印象を受ける。まず、学問には事実学と本質学という分類があって、というところからはじまり、本質観取とはこういう概念で、還元とはこういう概念で・・・ということを延々と整理している印象。もちろん、フッサールのその緻密な作業のおかげで、論理の飛躍はほとんどない(ように感じる)。

*自分の知りたいのは概念ではない。概念は、フッサール本人の文章より、整理された解説書のほうがよほどわかりやすい。求めているのはそこではなく、現象学の概念の「使い方」の方だ。だが、案外これがどこにも載っていない。。。

*が、現象学というのは、僕自身はもっと「使える」方法論だと思っている。実際にフッサールが各概念をどのように使いこなし、どのように分析したかが『イデーン』に載っているか、というと実はそうでもない気がしている。すくなくともⅠを読む限りの話だが。還元ひとつをとっても、具体例はほとんどない。抽象的な論理が、驚くべき緻密さで重なっている。しかし、具体例がないものだから、我々凡人には、どうやって本質観取をするとよりよい本質観取になるかわからないし、還元はどのような手法で行うとよりよい還元になるかがよくわからない。

*「どのような手法で行うと」「よりよい」○○と書いたけれど、この「よりよい」は実はフッサールは嫌いだったんじゃないかと思えてくる。フッサールはもともと数学畑の人で、数学って”完全な”を容認する学問だから、その完全性の担保のために、あえて「よりよい」レベルの方法論は提示しなかったのかも。この辺は妄想でしかないけれど。

フッサールが具体的な方法で還元を行っていた箇所は、別所になるけれど『デカルト省察』の44〜47節のあたりだった記憶がある。そこで、どのようにエポケーをし、どのように無駄な要素をそぎ落として本質にたどり着くかを、フッサール自身が行っていた。あれは見事だったけれど、凡人にはまだまだわかりにくい。この辺を咀嚼して自分の方法論にできないものかと考えてはいる。今後の研究のネタになるかも。

*で、『イデーン』を一通り読み通してたどり着いた結論としては、カントを読まないとフッサールは理解できないなと。『純粋理性批判』は、学生時代にサラッと読んだだけで、授業やゼミでもあまりまじめに扱ったことはなかった気が。というわけで、純粋理性批判をしばらくは読んでみようかと思っている。仕事の疲れ具合と要相談、だが。

*『純粋理性批判』を少し読み返してふと引っかかるところが。分析的判断と綜合的判断の節のところで、主語Aという概念の中に述語Bが含まれるかどうかを問題にして、カントが簡単な例を出して説明しているところがあるのだが、これが全然納得がいかない。第一、概念Aの中にBが含まれるかどうかを整理するためには、そもそも概念Aの境界を設定してやる必要がある。ところが、この境界を設定してしまうと、そもそもアプリオリな概念じゃなくなってしまうような、と考えている。カントは綜合的判断の方をアプリオリに近いものとしてプラス評価気味に話を進めていく。でも、そもそも前提から怪しいかもしれない・・・などと思いながら、解説書をいつか紐解こう、と考えた。

*なお、本屋で棚を眺めていたら、ヤスパースが昔『イデーン』について学位論文を書いていたらしく、その本があった。値段は2400円で、かなり安い。買ってもいいかも。タイトルは忘れた。