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気まぐれに書評とか。

ネットのウソ調査を見抜くために読むべき本ーー『「社会調査」のウソ』

日頃、新聞やネット記事にあふれている「調査」や「アンケート」をどれくらい信じられるだろうか?もし、それらが実は、信じるには根拠が薄すぎるものばかりだったとしたら?あなたはどうするだろうか。

実は、新聞の調査やネットのアンケート調査の結果というやつは、思った以上に信じるに値しないものが多い。なぜ、それらは信じるには早急かを教えてくれるのが、本書だ。

私たちは、もっと巷にあふれるアンケートや調査の類を批判的に見るようにしなければならない。誘導されてはならないのだ。

『「社会調査」のウソ』は、プロの社会学者である筆者が、日常生活で目にする新聞記事の調査や市民団体が集めるアンケート(筆者は、本書中でひたすらこれらを「ゴミ」と称す)の「胡散臭いところ」をひたすらボコボコに解き明かしてくれる。この本を読むと、目の前にあるアンケートを少しばかり批判的に見る力を養うことができることうけあいだ。

たとえば、次のアンケートを見てみよう。みなさんも、どこが怪しいかを少し考えてみてほしい。

「総合職女性6割『昇進など不利』/8割が『能力発揮』/『仕事続けたい』7割 この調査は総合職制度を採用している企業360社の女性を対象に、前年(1993年)の9月と10月に実施され、744人から回答を得た(続く) 『「社会調査」のウソ』p.29

この調査の問題点は、下記のとおりだ。(随分古い時代の調査だが、今でも時々ネット記事でこの手のアンケートを時々見かける。新聞は、さすがにやらなくなってきているように思うけれど。)

  1. 対象が「女性」
  2. 有効回答数

まず、対象が女性であるということは一番の問題だ。なぜかというと、アンケートはあくまで他との比較によって初めて意味をもつもので、比較対象が一切ないアンケートだからだ。このアンケートは、男性にも行うべきだった。

次に、有効回答数もなかなかやっかいな問題だ。よく、統計学だと「サンプル数が」という議論になりがちだが、実はこういうアンケートの有効性を見る上で重要なのは、有効回答数の方なのだと筆者は言う。

なぜかというと、結局回答する人というのは、その問題に関心の高い人であることが多いからだ。そして、有効回答率が低くなればなるほど、その問題に関心のある人しか答えていない確率が高まることになる。結果、そのアンケートはバイアスだらけということになるのだ。

この有効回答数(率)という観点はなかなか新しい観点ではないだろうか。最近はやりの統計学の本で浅知恵をつけただけだと、アンケートを見るとすぐ条件反射で「サンプル数が」という話にもっていきがちだ。しかし、サンプル数というのはあくまで統計的な有意性を決める話だったはずだ。有意性というのは、「その調査に意味があるか?」ということを示す数値ではない。本当にアンケートの含意を知りたいのなら、実は有効回答率を見るべきなのだ。

ちなみに、この調査では有効回答数がよくわからない。

本書から学べる、私たちが「調査」を目にした際に気をつけるべきポイントをまとめると次のようになる。

  1. サンプル数:極端に少なければ当然、まず統計として意味がない。
  2. 有効回答率:上に書いたとおりで、この確率が低すぎるとそのアンケートは恣意的なものである可能性が高い。
  3. 答えた人たちの属性:とくに市民団体が行うアンケートは注意。答える人は、その問題に関心の高い人がほとんどという点を考慮すべき。
  4. アンケートの目的:自分の主張を正当化するためだけに強引なアンケートを行っていないか。
  5. アンケートの項目:5がわかれば、4をやっていないかどうかがわかる。

これらの注意点を、これから「調査」の類を見た際に、反射的に思い返すといいと思う。批判的な目を養うためには、格好の一冊としておすすめします。

生きる希望をなくしたら読みたい、『三十歳』

30歳が近くなってきた。まだ24だが。でも、20歳の人に親近感を感じるかというと、感じない。感じるのは30歳の人の方だ。なぜなら、社会人になってしまったからだ。

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30歳を目前にすると、いろいろ疲れる。なぜ疲れるか。人生の辛酸をすこしずつ舐めはじめるからだ。こんなことをいうと30歳以上の人に怒られるかもしれない。お前はアマチャンか!と。アマチャンで結構、だが、疲れているのは事実だ。

インゲボルグ・バッハマンなんていう詩人がオーストリアにいたらしい。こんな人、正直知らなかった。一部の文学好きの人の間では結構有名みたいで、アマゾンのレビューを見て、「次はこの本も訳してくれ!」なんて書いてあって驚いた。オーストリアには、インゲボルグ・バッハマンの文学賞みたいなものまであるらしくて、それが文学をやる人の登竜門になっているらしい。

けど、バッハマン自身はどうやらローマに住んでいたようだ。亡くなったのもローマ。自宅で、タバコの火が自分の身体に燃え移ってしまって、結局全身やけどで10日後に亡くなったらしい。彼女はローマに住んでいた。だから、この本にもすこしだけど、ローマの記述が出てくる。

そんな詩人だったバッハマンが小説にもチャレンジ(?)して、その短編集が収録されて一冊の本になった。それが、『三十歳』という本だ。哲学の博士号までもってるような人だからか、内面的な描写が非常に優れている。内面描写モノの好きな僕としてはドツボだった。

『三十歳』は、要するに次のような主人公が登場する。

それまでの彼は、日々単純に生きていた。毎日何かしら違うことを試み、悪意を持たずにいた。自分にたくさんの可能性を見いだし、たとえば、自分は何にでもなれると思っていた。偉大な男、人々の目標となる存在、哲学的知性。

そんな彼が、三十歳を迎えるにあたって急に、人生を見直したくなった。そして、彼は旅に出ることになる。そこからの話はちょっとネタバレっぽくなってしまうので割愛する。けれど、非常に三十歳(というか、若者)の内面をよく描写できていると思う。

人が変わるタイミングというのはいくつかある。誰かとの出会い。あるいは、どこか新しい環境に住み始める。けれど、僕が思うに、大学を卒業してしまうとなかなか誰かとの出会いによって自分が変わったり、新しい環境に住み始めて自分が変わったりすることは難しいと思う。なんというか、10代や20代前半のころと比べて、「感受性」が変わってきてしまっている気がするからだ。

感受性ということばは便利だけど難しい。僕が思うに、感受性が以前と違うというのは、何に対しても「感動」を特段抱かなくなったということだ。人生経験を積んだといってもいい。あるいは、仕事で疲れていると言ってもいい。若い頃のように、本を読んで「うおお!すげえ!」という感動を抱かなくなったと最近思う。書店を歩いていてもワクワクしなくなった。

それと変わって最近つねに求めていることは、日々が同じように繰り返してくれることだ。アブノーマルな事態ーーたとえば、先週のようにマーケットが大荒れするとか——が起きると、「やめてくれよ」と思うようになっている。年をとったなと思う。大学生のころの自分はむしろ、日々に変化があることを求めていたから、ある意味成長したのかもしれないけど。

そういうわけで、人は人生経験を積むと「変わる」ことが容易ではなくなる。人を変えるキッカケも容易ではなくなるから、旅とか人との出会いで大学生のころのように感動して変わる、なんてことはなくなる。Facebookを開けば、世界一周で人生変わっちゃった!と言っている人が多くいるけど、彼らは結局のところ、若くて感受性がまだ豊かなだけだ。

20代でさえそう思い始めているのだから、30代はさらに疲れるんだろうか。よくわからないが。

でも、30歳になるということはどういうことなんだろうか。感受性以外にもある。話を聞く限りは、30歳になると、人よりも優れた何かを持ち始めないといけない年だ。そしてその人よりも優れた何かは、20代のうちに蓄えておく必要がある。主人公も、そろそろ気づき始めたようだ。

いまのように三十歳を前にして幕が上がる瞬間が来ることを、彼はこれまで一瞬たりとも恐れなかった。「アクション」の声がかかり、自分がほんとうは何を考え、何ができるのかを示さなければならないこと。そして、自分にとってほんとうに大切なものは何か、告白しなければならないこと。千と一つあった可能性のうち、ひょっとしたら千の可能性をすでに浪費してしまったこと、あるいは、自分に残るのはどっちみち一つだけなので、千の可能性を無駄にせざるをえなかったことなど、彼はこれまで考えもしなかった。

思うに、主人公はそういった「何か優れたもの」を得られたように感じられず、人と自分を比べて自分には何もないことを気づいてしまった。結果、自分の人生を見つめ直したくなって、自分を変える旅に出たのではないだろうか。そういう気分になること、一度や二度経験した方もいるはずだ。まあ、そんなところだろう。

彼は迷って旅にでる。が、何も変わるものはなかった。昔を思い出すだけで、結局過去の奴隷となるに過ぎなかった。最終的に彼を変えたのは生死をさまよう経験だった。そうして、生きていることを実感する。

結局、年をとってしまうとガツンと来る経験しか自分を変えてくれるものはないということか。それは、自分が死に近づけば近づくほどよい経験、ということになるんだろうか。でもそういえば、とも思う。

僕が大学に入学する年にちょうど、東日本大震災があった。ちょうど受験のために千葉にいたが、見事に地震に遭った。その時以来、自分がいつ死ぬかわからないことを悟った。こういう経験があると、自分の人生は有限だということを嫌でも知る。そしてそういう経験こそが、人の生きる意志を生むのかもしれない。生きる意志があるうちは、人は自分を変え、より優秀であろうと思うだろう。

もっとも、うつになってしまったらこんなこと言ってられないんだけども。

三十歳 (岩波文庫)

三十歳 (岩波文庫)

『世界システム論講義』は歴史に興味があるなら一度は読んどくべき。

『砂糖の世界史』や、ウォーラステインの世界システム論講義を翻訳した川北先生の本。世界システム論とは、世界を一つの有機体だと捉える考え方のこと。世界システム論によれば、世界は「中核国」と「周縁国」に分かれる。そして、その国と国同士がお互いにどのような役割をになっていたかを分析する手法だ。

世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)

世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)

筆者は本書の最初の方で、「先進国」と「後進国発展途上国)」とに分類する現代の考え方に対して疑問を投げかける。それはほんとうに正しいのだろうか、と。ある国を「先進国」とみなし、ある国を「後進国」とみなすことには、国が一つの目標に向かって発展し、その目標の達成度合いでレベルが決まる、という前提を容認することに等しい。

そして、この考え方が普及したのも「世界システム」によるものだと筆者は考える。なぜなら、世界システムとは「中核国」が「周縁国」を従属させる仕組みそのものだからだ。従属した周縁国は当然、中核国の思想を徐々に受け入れることになるだろう。こうして、イギリスやアメリカが考えだした発展観が、全世界を席巻していくこととなった。

現代の資本主義も、この「世界システム」がなかったら発展しなかったと言っても差し支えないと思う。なぜなら、資本主義はつねに「周縁」を搾取しながら発展してきたからだ。言い換えれば、フロンティアという存在を発見し、そこを制服していくことによって資本主義は発展する。現代で言えば「オーシャン」——それは青でも赤でもよかった、青か赤かは制服のしやすさの違いでしかないから——を追い求め、そこを攻めることによって資本主義は発展した。

世界システムを考えることは現代の資本主義経済の本質に迫ることだ。

本書は最初はスペインとポルトガル、その次はオランダ、そしてイギリスの歴史を扱って、最後にすこしだけアメリカに触れる。世界のヘゲモニーの変遷についていくような、そんな構成になっている。もともとは放送大学のテキストだったらしいが、俯瞰的に、だが深くヨーロッパ史を学びたい方は読むべき。

現代生活の多くの「正しい」とされる価値観は、近代が作った幻想かもしれない

イギリスやアメリカが世界のスタンダードとなったのはここ200〜300年の間くらいだ。そして、ここ200〜300年くらいの間に、人類のスタンダードも変わってしまったのだなと本書を読みながら思う。

本書の中では、イギリスの産業革命以前の労働について一瞬触れられるのだが、私にはこれがまず印象に残った。産業革命以前のイギリス人は、日曜には深酒をし、月曜日は休むという聖月曜日と呼ばれる習慣があったそうだ。ほかの曜日にかんしても、結構ダラダラ働いていたようである。それが、産業革命によって、朝は決まった時間から働き、夜も決まった時間まで、しかも次の朝は早いという生活を送るようになった。現代の労働形態も、産業革命によって作られたと言ってもいいのではないだろうか。

さらに、イギリス人にはもともと朝食の習慣がなかったらしいのだ。イギリス人はもともと一日二食だった。一日三食食べるようになったのは17世紀中頃らしい。要するに現代の人間の「正しい」と言われる生活習慣でさえ、実は普遍的に正しかったものではなくて、近代になって生み出された新しい価値観だったのだ。

僕はこういう歴史の本を読むたびに、現代人が盲目的に正しいと信じているものは案外〈つくられたもの〉であって、未来永劫それが正しいと言われつづけることもないんだなとつねづね思う。現代の労働環境だって、所詮は近代人が作り出した「世界システム」発展のための道具にすぎない。世界システムの発展はたしかに人類の発展をもたらしたかもしれないが、どこに貢献していたのかは十分ん見定めておかないと、くだらないことで自分の身を滅ぼすことになるかもしれないとさえ思う。

でも、難しい点がある。それは、それでも近代の価値観——たとえば、朝は9時に出社して規則正しく働き、朝食はきちんと食べ、三食きっちり摂る。恋愛をして結婚をしていい旦那あるいは女房と共同生活を送る、「自由」、「平等」等——によって人類が発展してきたという事実だ。産業革命を経て、世界全体のGDPは比べ物にならないほど伸びた。今こうして我々が飢え死にすることなく、病気で生涯を閉じられるようになったのも、近代の新しい価値観のおかげなのだ。

一方で、近代の価値観に苦しめられている人もいる(”全員じゃないけど”)。代表的なのはサラリーマンだろう。みんな、朝が辛いのは産業革命のせいなのだ。酒に飲んだくれると怒られるのも、産業革命のせい。ついでにいうと、イギリスの飯がまずいのは産業革命でまともに調理する時間がなくなったからだと言われる。産業革命は、たしかに人類に発展をもたらしたが、一方で人類から大事なものを奪っていったのも事実だ。

だから、近代の価値観を諸手をあげて「正しい」と賞賛することはできない。

さらに話はそれるが、この話は、突き詰めると哲学的な「ある思想が正しいとはどういうことか?」という話に行き着く。これは結構難しい。この問いをさらに突き詰めると、「時代が変わっても普遍的にだれにとっても正しい思想はあるのか?」という問いに行き着く。これは最終的には、「客観的なものは存在するか?」という古来からの哲学議論に行き着くだろう。

この問いに答えるのは難しい。僕自身は、一番賢い姿勢は「うまいこと使い分ける」だと思う。今の日本の政治家のように、かつての近代の価値観だったGDP志向主義にすがりついていては、時代の流れに置いていかれる。たしかに近代の新しい価値観は人類を発展させた。だが、今後も発展させてくれる保証はないのだ。次の新しい価値観を時代は必要としている。

そんなことを考えさせてくれる本書はやはり、いい世界史入門の本だと思う。

知の教科書 ウォーラーステイン (講談社選書メチエ)

知の教科書 ウォーラーステイン (講談社選書メチエ)

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

なぜサラリーマンの目は死んでいるのか

来年就職予定の大学生が議論を呼びそうな記事を書いています。私も、ついこの間まで大学生だったので、同世代として少しコメントしてみようかと思います。

私は今新卒1年目で、金融系IT会社で働いています。そのなかで、銀行のリスク管理に関係するシステムの開発をするプロジェクトに入れてもらっています。なお、今日書く話は、会社のなかの特定の話題を批判するようなことではない、一般論だということをあらかじめ了承していただきたいです。。[*1]

さて、元ネタとなった記事はこちら。

yuma1102eff.hatenablog.com

内容をまとめてそれに対して建設的な批判を加えるのがとても面倒なので、気になった話題についてすこしコメントしていく形式をとろうかと思います。これが、意識高い学生だったけど比較的堅実に仕事をする会社に入った社会人の一意見です。

ネガティブな話でよく聞くのは 「世の中そんなに甘くない」「仕事は大変だ」 「初めからこうなりたいと思っていたわけではない」ということだ。

「初めから~」はの話は興味深い。 今、自分がこうなるのは嫌だ、と思っている人も昔は自分と同じように社会人生活に希望を持っていたということだからだ。 元々嫌々働き始める人がいるのも間違いないが、希望を持っていた人が夢破れていくのはどういう理由からなのだろう。

「世の中そんなに甘くない」というのはほんとうにそうです。私もアルバイトやNPO活動等で、マネジメントや自分自身のスキルについては結構自信をもった状態で入社しました。

が、実態としては正直社会人2年目くらいの人とは雲泥の差があります。大学に通いながら片手間でやっていた自分と、2年間休日をのぞいてほぼ毎日仕事で真剣勝負していた人とでは、実力の「実」の部分に大きな違いがあります。先輩は手強いですよ。そして、自分がこれまで培ったスキルは思いのほか役に立たない。すべてをゼロにする気持ちで入社すべきです。変なプライドは捨てるべき。

「仕事は大変だ」については、それは大変でしょうね。社会人になると自分の仕事に責任が伴ってきます。あなたの仕事の期限が少しでも遅れた場合は、周りの人に迷惑をかけることだってあります。あなたの上司は、新人のあなたのリスクヘッジを裏で必死にしなければなりません。できれば新人のあなたに気づかれないように、です。そういう意味で、「仕事」の意味合いが、アルバイトや学生団体のころとはずいぶん変わってきます。新人のうちは辛いものです。要領も悪いし、能力もないですからね。

さて、上2つとは毛色の違う愚痴があります。上2つは親父の小言としてよく言われる話なので、まあ聞いたことのある人も多いでしょう。しかし、次の愚痴は違う。

「はじめからこうなりたいと思っていたわけではない」。これについて、私は最近このことを口にする人が多いと思っています。そして、これが一番問題だと思っている。

「はじめからこうなりたいと思っていたわけではない」と考えているということは、「こうなりたい」という目標があったはずです。しかし私は、この「目標」の部分が問題だと思っています。

就職活動をして思ったことなんですが、みんな「キレイゴト」を語りすぎています。企業のキャッチーなフレーズって、中身がなくてほんとくだらないものばかりです。とくに、ITベンチャー系を受けたときは幻滅しました。うんざりしたので、お堅めで仕事状況のリアリティを真摯に伝えてくる今の会社に決めたという経緯があります。

「キレイゴト」の中心は、「夢」とか「希望」とか、あとは「生き生きと」「やりがい」とか、そういったワードです。「イノベーション」とかもそうですよね。まあ、そんなところです。

具体的な例で行けば、就活生向けの採用サイトを見るといっぱい出てくるワードたちが、いわゆる「キレイゴト」です。こういった言葉は、多くの場合学生に、仕事をする上では夢や希望、目標を持ちながら働くことが重要であり、当社ではそれが可能です!ということを言っているにすぎません。

しかも大学生はそのキーワードにわりとまんまとだまされ、仕事にたいする夢や希望、さらにはイキイキと働く自分というイメージを増幅させます。そしていざ入社した時、思った以上に夢や希望を持ちながら現場で働いている社員がすくないことに、幻滅していくのだと思います。もちろんすべての会社がそうではありませんけど。

で、なぜ大学生がこれらの「キレイゴト」キーワードにまんまとだまされてしまうかというと、今の世代の人って、しきりに小学校・中学校・高校で「夢」とか「希望」を持つことの重要性を叩き込まれているからだと思うんですよね。受験とか、進路決定とか、道徳の授業とか、ことあるごとに人生計画みたいなものをたてさせられる。そこには、「将来どういう仕事について」「年収はどれくらいで」——だから、こういう仕事につくためにはこの大学に行く必要がある、そういうことが書かれている。

でも、これってキモいと率直に思いませんか。はっきりいって、誰かに管理されたSF社会としか私には思えないんですね。働き始めてから夢や目標を持てない自分はだめなのか?という気持ちを増幅させる装置になっている。実際はそんなことはないんですけどね。

もちろん、この考え方に対しては次の反論もあり得ます。「夢」や「希望」を若い人が抱いたとしても、若い人がそれを実現できない社会が問題なんだ、と。まあそうなんですけどね。でも、社会ってそうは言っても簡単には変えられないですよね。

そもそも、江戸時代より前の人はたぶん、階級制で夢とか希望とか考えずに済んでいたかと思います。が、明治になって、近代の二大価値観である「自由」と「平等」なる言葉が入ってきてしまった。この辺りから、徐々に社会システムは変化してきているのですから、現代はその過渡期として見るほかないと思うんですよ。

私たち若い世代は、結局のところ多くを望みすぎているだけかもしれません。本来人間は、飯を食えて子どもを養えるだけの収入があり、そのお金で実際に飯を食え、子どもを養えていれば万々歳だったはずです。ああでも最近は、それすらままならない人も徐々に増えてきている。これが成熟社会と言われる日本の病理なのかもしれません。でも、大多数の大学生はそんなことないですよね。みんななんだかんだ大学に通えるくらいの裕福な家に育っていると思うんです。

多くのことを望みすぎてしまって、それが思った以上に実現できないからこそ、夢破れてサラリーマンの目は死んでいくのではないでしょうか。というか9割、若者は多くを望みすぎています。be ambitiousなのが若者の特権かもしれませんけど、「望んだことの大半はかなわないけどね」くらいの気持ちでいられないと死んじゃいます。

ただ、ひとつ強調したいことは、満員電車でサラリーマンの目が死んでいるのは当たり前です。第一に、眠い。第二に、人が多すぎて辛い。この2つで死んでるんです。かならずしも、仕事が楽しくないから死んでるわけではないと思います。満員電車の外で死んでる目の人にあったら、すこし声をかけてあげてください。

人によって、人生における仕事の優先順位がまったく異なることも、理解してあげて欲しいです。子どもの顔が見たくて仕方ないパパだって、結構いますから。子どもに会いたいばかりに、「仕事よ早く終われ」と念じつづけることを、私は悪いこととは思いませんけどね。それぞれの人にはそれぞれの人生があるのですから、むしろその人の仕事に対する態度を尊重してあげられる上司になったら、いいんじゃないでしょうか。

なんてとりとめもない話を考えました。来年から働き始める皆さん、こうは書きましたがそれでも仕事は楽しいですよ。がんばってください。

*1:こう書くと、これだから銀行系は・・・とか言われそうですが。リスク管理関連してるので職業柄リスクヘッジしてしまうんですよね。

『ニーチェ』ジル・ドゥルーズ

ドゥルーズはこの本の中で、ニーチェの言葉を借りてではあるが、次のようなことを述べている。哲学は、否定の歴史だったと。「○○をしなさい」ではなくて、「○○のような生き方をしてはならない」という思想が、ソクラテス以降の思想には根付いてしまっていた。

従って必然的に哲学は、その歴史において、退化しながら、自分自身に敵対しながら、そのマスクと混同されながらしか発展しなかった。能動的な生と肯定的な思想との統一の代わりに、思想は生を裁くこと、いわゆるより高い価値を生に対立させること、それらの価値に応じて生を測定し、限界づけ、生を断罪することを、自らの任務として定めるのである。 例にあげるとしたら、「理性」と「情念」の対立関係がそうだろう。これは多くの中世〜近代の思想家が論じてきた話である。できる限り情念の方を抑え、理性に従って生きよ。これが、近代哲学の根幹をなしていたといってもさし支えはない。

だが、ドゥルーズニーチェはこの歴史について疑問を投げかけるのだ。情念あるいや感情は、生きる以上欠かせない要素のうちのひとつである。それをないがしろにして、人は生を全うすることはできない。何より、本来は理性と感情は対立せずお互いが共存する存在であるはずだ。私もそう思う。

さらにいうと、哲学の失敗は「高位の価値」をセットしてしまったことだ、とドゥルーズニーチェは言う。そうしてしまったために、低位に位置づけられた価値に人生の重きをおいている人は、「価値のない存在」となってしまった。

ソクラテスは生を裁かれるべきなにものか、節制すべき、限界づけられるべきなにものかとする。そして思想を、高位の価値の名において——〈神性〉、〈真〉、〈美〉、〈善〉……などの名において用いられる一つの尺度、そこで実現される限界づけにする。 哲学者は、本書に何度も登場するように、こうして「立法者」として、高位に対立する低位の価値を低い物と見積もった。だがこのことは、低位の価値を重視する生に対して〈否〉ということであり、生の否定である。ドゥルーズニーチェは、生の否定に対してNOを突きつける。

〈力〉への意志

ドゥルーズは、ニーチェの思想内容解説の最後で、「よくありがちな誤解」として「〈力〉への意志」の誤解をあげている。

〈力〉への意志に関して(〈力〉への意志が、「支配欲を、あるいは「〈力〉を欲すること」を意味すると信じ込むこと)。

ニーチェの言いたいことはむしろ逆だ。〈力〉というのは、何かを「作り出すこと」である。そしてその「何か」というのは、肯定のエネルギーそのものだ。肯定のエネルギーを増幅させ、他との関係を徐々に逆転させていくことで、哲学に蔓延した「否定」の空気を逆転させることができる。これこそ、ニーチェ哲学の根幹だ。

ニーチェの語るところでは、〈力〉への意志はなにであれ欲しがったり、手に入れることに損するのではなく、むしろ作り出すことだ。・・・〈力〉への意志は相互の差異によって成り立つ示差的なエレメントであって、そこからある一つの複合体に向かい合う諸力が派生し、またそれらの処理機のそれぞれの質が派生してくるのである。だから〈力〉への意志はまたいつも動性に富む、軽やかな、多元論的な優位として提示される。

ニヒリズム

ニーチェニヒリズムにはいくつかの段階があると説明する。それをドゥルーズは本書の中で整理している。だが、それよりも次の事実の方がよりニーチェの核心に迫りやすいのではないかと私は思う。

以前のニヒリズムは、高位の価値の名において生の価値を貶めること、生を否定することを意味した。そしていまやこれらの高位の価値を否定すること、それらの代わりに人間的な——あまりに人間的な価値を置くことを意味するのである(道徳が宗教にとって代わる。有用性、進歩、歴史それ自身が神聖な諸価値にとって代わる)。

ここからは私自身の考えだが、神聖性が失われた現代は、非常に危うい時代になっている。道徳あるいは有用性、プラグマティスティックな考えは危険である。

なぜなら、道徳について言えば、誰かが「正しい」と行った時点で決まる恣意的なものである。そしてこれまでの歴史にも、ある過激派政党が自分たちの正当性をしきりに主張していたら、それがいつのまにか道徳的正しさをおびたように感じられた、という例さえあった。

有用性については「有用でない」ものは簡単に否定されてしまうからである。簡単な例で言うと金融市場だが、もうこのことについては言うまでもないだろう。マーケットで値段がついたものが正しい、という論理は「正しさ」の破綻を招く。

神聖性が失われたのは、神の死という大きなイベントがあったためだ。だが、神の死があったとしても、ニヒリズムは終わりを迎えない。なぜなら、ニヒリズムは持続し、ほとんど形を変えないからである。なぜ形を変えないのか。それは、担い手が同じ人間だからである。神の死において、「高位の価値」の意味は上に記したように代わったものの、結局「高位の価値」を定めている時点で、肯定-否定の関係が生まれる。これは、以前と構図が変わっていないと言えるだろう。

最後の人間

神の死のあと、人間は自分たちが神なしに物事をすますことができると主張するようになる。そして、神は自分たちであると主張する。自分たちが神なしで済ますことができるようになる、と主張しつづけると、だんだん虚無の世界へ深く入り込んでいく。なぜなら、「神」は物事の絶対的根拠であったから。道徳や有用性は、上に述べたように、相対的なものだから。

この思考が行き着く先は、「一切はむなしい、むしろ受動的に消え去ることだ!」ということになるだろう。一切はむなしいのだ。なぜなら、それは移り変わってしまうからである。だが、ここから人間の価値は反動し、新たな価値観を生み出すことになる、とドゥルーズニーチェは言う。

あらゆる価値の転換

あらゆる価値の転換は次のように定義される。

諸々の力が能動性へと生成すること、〈力〉への意志のうちで肯定が勝利すること。ニヒリズムの支配の下では、否定的なものが〈力〉への意志の形態であり、基底となる。肯定はただ二次的であり、否定に服従し、否定的なものの成果を寄せ集め、担うだけである。 いまやしかし、すべてが変わる。肯定は本質になるのであり、あるいは〈力〉への意志それ自身に成る。否定的なものに関しては、それが残存すると言えるが、しかし否定的なものは肯定する者の存在の様態として残存するのであり、肯定に固有の攻撃性として、先駆ける稲妻として、また肯定されるものにつき従う雷鳴として——つまり想像に伴う全的な批判として残存するのである。 価値転換とは、肯定 - 否定の諸関係をこのように転倒することを意味するのである。

ところで、肯定すると行った場合、ドゥルーズニーチェの肯定は何をさしているのだろうか?それが先ほどから話題に上っている「生」などである(ドゥルーズはさらに、大地などもあげる)。

これは、おそらくドゥルーズ自身の思想とも深くかかわり合った記述だと思う。なぜなら、ドゥルーズは自身の哲学を「自然哲学」「生命の哲学」として語りだしているからだ。差異を差異として認め、差異自体あるいはその集合全体を肯定することこそが、ドゥルーズ哲学の根幹をなしているからである。

これは具体的には、精神疾患を抱えた人間をどう捉えるべきかという問題に対する回答に現れている。現代では、統合失調症などを「病」として扱い、治すべき対象としてみなす。つまり、否定するのである。

ところが、統合失調症などはある種の個性であり、他人との差異と捉えることも可能だろう。何よりドゥルーズは生の否定を嫌った哲学者だった。統合失調症を差異として認め、その差異を否定することをできるだけ排斥した。差異を差異のまま肯定すること。

これがなされたとき、新しい価値が生まれることになるだろう。そしてこのことが、ニーチェを通してドゥルーズが伝えたかったこと、なのかもしれない。

ニーチェ (ちくま学芸文庫)

ニーチェ (ちくま学芸文庫)

年末年始は塩野七生

せっかちなWebの読者のために、先に結論を伝えたい。この本はおもしろい。ただし、世界史にある程度触れていなければ、楽しむことはできないだろう。「アテネ」「スパルタ」の言葉に「あぁ、あれね」と反応できなければ、この本は結構難しい。

*

塩野七生の新刊が出ているのを年末に発見し、読んでしまった。以前は古代ローマを扱った塩野さんだったが、今度は古代ギリシアを扱うという。

学生時代、古代ギリシアに関する話に結構触れる機会があった。ゼミでプラトンアリストテレスを徹底的に読み、その中でギリシアの文化についてもそれなりに触れた。『イリアス』『オデュッセイア』『オイディプス王』など、古代ギリシアの伝説的で現代にも受け継がれる名作を、自主的に一通り読んでみた。それくらい古代ギリシアは好きだ。

本書はまるでミステリーを解き明かしていくかのようにストーリーが進む。塩野さんはとにかく伏線を張るのがうまいと思う。「スパルタはとにかく機動力がない、なぜなら・・・」という話は、前半すぐに出てきて、本書の中でその後、スパルタの行動原理を示す物として何度も登場することになる。

伏線は効果的に張られることで、読者の理解をより助けることになる。

*

『300』という映画を見たことがあるだろうか。見たことがない方は、一度見てみてほしい、と思うくらいすばらしい映画である。あそこには男の理想の生き様が凝縮されている。とにかくカッコいいのだ。そして、その『300』で扱われた古代ギリシアの戦争が、本書でも登場する「テルモピュライの戦い」である。

テルモピュライの戦い」は、欧米人に「古代ギリシアの戦いと言えば・・・」と問うと必ずそう返ってくる戦いの一つである(ほかには、「マラソン」の語源となった、「マラトンの戦い」があるらしい)。アケメネス朝ペルシアを相手に、ギリシア連合軍が戦いを挑む。最終的にこの戦いでギリシア連合軍(最後まで戦場に残ったのはスパルタだった)は負けることになるが、その負け方が「玉砕」であったが故に、英雄的な悲劇として今でも語り継がれている。

『300』は、その300人のスパルタ兵士が玉砕する様を、できる限り美しく豪快に描ききった傑作の映画である。

本書でも当然、テルモピュライの戦いは触れられる。そこで、塩野さんは彼女自身の真骨頂と時に言われる戦闘描写を行う。これがとても臨場感のあるもので、僕はページをめくる手がとまらなかった。

この戦闘シーンはおそらくヘロドトスを中心に文献を丁寧に調べ上げ、著述していると思う。文献を丁寧に読みつないで、それをわかりやすいストーリーに変えきってしまう力は、一生身につけられない力だろうな、と思わざるを得ない。

*

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

『イデーン』『コネクトーム』

フッサール。その名前を高校の倫理で聞いた方は多いだろう。だが、フッサールが何をいい、何を考えた人かということまで知っている人は少ない。「あれだよね、現象学を唱えた人」――そこまで答えられればいいほうだろう。ドイツ観念論を代表するカントやヘーゲルの名前を知っている人は多いが、フッサールの名前を知っている人はまず少ないし、その思想内容はカントの二律背反やヘーゲル弁証法ほど知られてはいない。

現象学の主要な概念はいくつかあるが、とくに抑えなければならないのは「志向性」という概念だと私は思う。もちろん、諸説ある。人によっては、ノエシス-ノエマの方が大事だというだろうし、本質観取の方が重要な概念だ、という向きもあるだろう。だが、私個人としては、この志向性という概念は画期的で、しかも思想の最先端を行っていると考えている。

物事は、それ単体として「存在する」とは言えない。もしも、物事が、物事自身が、単体としてそこに「ある」ということを認めてしまったとする。そうすると、物事には「核心」「中心」が必要になる。何かが単体で「ある」ことを認めるということは、何かの真因がそこに「ある」ことを認める、ということだ。だが、これは随分前に哲学者が言ったように、因果論に陥ってしまう。物事には必ず原因があり、その原因はさらに原因を持つ。さらにその原因の原因をたどっていく。そうした思考は、最終的には「存在を基底する絶対者」という存在にたどり着かざるを得ない。だが、これはプラトンの「イデア」の話と同じで、「認めるか」「認めないか」の議論になってしまい、埒が明かなくなるのは目に見えているだろう。

一方で「志向性」という概念は、そういった「存在を基底する絶対者」を認めない。志向性とはドイツ語でいうとIntentionalität。これを英語に直すと、Intentionality。つまり、行為の「意図」くらいの意味がある。「意図」をどこかに向けることこそ、志向性という概念である。ところで、意図をどこかに向ける、というのはどういうことだろうか。私はこれを、「関係性を結ぶ」ことだと理解した。何かと関係性を結ぶこと、これこそ「志向性」なのだろうと考えている。どこかに人が意図を向けると、対象があると認めることだ。つまりその時点で、私は対象と関係性を持つことになる。関係性に「存在を基底する絶対者」はいない。関係性はつねに時間によって移り変わるものだからだ。そこには同一な何かは存在せず、ただ関係のみがある。言うなれば、関係性そのものが存在そのものである。

もちろん、上記の仮説は私の勝手な仮説に過ぎない。だが、フッサール志向性という概念を生み出した後に発展させていった思想の変遷を見る限り、意図する意味はそんなところだろうと考えている。そして、志向性という概念を拡張してハイデガーが『存在と時間』を書いたと考えるなら、この考えは大きく外れてはいないと思う。

ところで、なぜ私が「思想の最先端にあるかもしれない」と言ったか、という話をしたい。それは一冊の脳科学の本との出会いによって確信された。世界でも最先端の脳科学の考え方は、現象学の考え方と似通っていた。

最近、一冊の脳科学の本を読んだ。そこには、脳はなんとか領野という部分にわけられて考えられるほど単純ではなく、ニューロンの総体をもって一つの働きをなしている――そんな風に書かれていた。脳科学では、言語を司るのは脳のこの部分、視覚を司るのはこの部分、という見方をするのが通説となっている。みなさんも、テレビ番組等で一度は見たことがあるだろう。

だが、この理解では説明できないことがある。それは、単純な事実だ。特定の領野の部分が仮に停止したとしても、脳はその停止した領野の働きを補う機能をもっている。このことである。脳の左半分を失っても、残った右半分が左半分の機能を持ち始める、という話を一度は聞いたことがあるだろう。それである。

それを説明するのが「ニューロンの関係性」という概念だ。ニューロンの「関係性」こそが、脳の動きそのもので、さらにいうと、ニューロンの関係性こそが、その人自身なのだ。こんなことが、その本には書かれていた。

私はこれを読んで、現象学をすぐに思い出した。とくに「志向性」の概念を思い出した。結局、自身は対象がなければ存在していることにはならない。存在という概念の中にはつねに、何かしらの対象が存在している。また、自身というものは何かの「総体」なのだから、これまでの哲学や科学がやってきたように、とにかく物事を粉々に分割して事態を把握しようという考え方では限界がある。ある物とある物同士の関係性を分析することこそが、事態を把握する上では重要になってくる。

最新の脳科学と現象学の思考のエンジンとが似通っていることをもって、思想の最先端であると言ってしまうのは甘いかもしれない。だが、現象学はこれまでも哲学の陥っていた二元論のジレンマをある種うまいやり方で解決してきた。フッサールの用意した思考の断片には、まだ見ぬ新しい使い方があるかもしれない。その可能性は無限に向かって開かれている。

こんなことを考えた。

コネクトーム:脳の配線はどのように「わたし」をつくり出すのか

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