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気まぐれに書評とか。

『国家はなぜ衰退するのか』上

大学生の頃に出版された本だったが、最近まで読めずにいた。しかし最近になって文庫化されていて、ぜひ読んでみるかということで読んでみることにした。感想としては、非常におもしろい!以外の言葉が出ない。まだ上巻だけど、ひとまず感想を書きたくなるくらいにはおもしろい。

本書の中心的な問いは、「なぜ裕福な国と貧しい国の間には、これほどまでの収入と生活水準の格差があるのだろうか?」ということである。そしてアセモグルたちが本書の中で語るのは、「その国が経済的に豊かかどうかは、その国が採用した政治制度によって決まる」というもの。私有財産をきちんと認めたり、競争を自由に促すような政治制度を導入した国は経済成長が起こって裕福になり、それをしなかった国は貧しくなる、というものだ。具体的に筆者は、前者を包括的経済制度の導入と呼び、後者を収奪的経済制度の導入と読んで対比する。

包括的経済制度の導入例のほとんどは、じつは今の先進国である。アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ、そして日本などは全部、包括的経済制度を早期に導入したがゆえに、今の地位を築き上げている。一方で、収奪的経済制度の導入の例のほどんどは、今の発展途上国である。最近になってたしかに発展途上国は目覚ましい成長を遂げているものの、たとえば100年前の中国は収奪的経済制度を導入していたがゆえに、停滞していた(もっとも、中国も現在は包括的経済制度を導入し、爆発的な成長を遂げている)。

包括的経済制度というのは、本書ではあまり詳しくは書かれていないけれど、おそらく次のことをいう。私有財産を認め、自分の財産が他人から強奪されることのない安全な状態。その上で国民は自由に商業活動を行え、そこで獲得した富をすべて自分のものとして保持できること。保持できるがゆえに人々は自由に競争し合い、イノベーションを起こそうと切磋琢磨すること。いうなれば、近代以降ヨーロッパやアメリカなどでスタンダードとされた経済制度をしくことである。

収奪的経済制度というのはその逆で、私有財産は認められておらず、財産を保持したとしても支配者もしくは政府に強奪される可能性のある状態をいう。商業活動は自由かつ安全には行えず、賄賂などが横行している。結果としてイノベーションなどは起きない。江戸時代以前の日本や、今の北朝鮮などがそれだと言える。

各国間の貧富の差を説明するものとしては、『銃・病原菌・鉄』で語られたように、その国の位置する場所によって決まるという地理説などがあるけれど、アセモグルは地理説を批判する。具体的にはアメリカの国境沿いにある街をひとつ例にとり、数キロしか離れていないのにこれだけ貧富の差があるのは、アメリカは経済成長が可能な制度を導入したからで、メキシコはそれをしなかったからだ、と説明する。

このアセモグルたちの主張は、各国間の貧富の説明の新しいスタンダードになるかもしれない。一方で、ダイアモンドの地理説のような奇抜さはなく、読んだ人は「まあ、そうだよね」という感想を抱くかもしれない。みんな気づいていたけれど、なぜか意識的に外していた問題を、アセモグルたちは再び表舞台にのぼらせたという印象を受ける。

で、本書の内容は実は以上なのだ。このシンプルさがまた読みやすい。あとは延々と具体例が続くのだが、世界史の復習にもなってちょうどいい。取り上げられる国々は多種多様、歴史上の国も当然取り上げられる。ローマ帝国から産業革命前のイギリス、コンゴやジンバブエ、そして日本も取り上げられる。

ただ、である。あえてわかりきっている陳腐な問いをいくつか立てておこうと思う。アメリカの天才たちが考えることだから、この手の問題に対してはすでに反論が考えられているかもしれない。いつかアセモグルが来日して公演するようなことがあったらぜひ聞きたい、そんな質問を立てておこうと思う。

まず1つ目は、「ではなぜ、現在経済発展を遂げている国は包括的経済制度を導入できたのか?」という問題である。この点については、本書ではあまり深く掘り下げられていない。もちろん、各国ごとに個別事情があることは承知である。だが、各国が包括的経済制度を導入できたのは、「運」以外のなにかしらの要素があるはずだ。たとえば、階級間の移動が思った以上に簡単にできる社会構造だったとか、そういう理由があるはずである。その点について、ぜひ研究調査が進むといいと思う(下巻に書いてあるかも?)

2つ目は、「じゃあ包括的経済制度を導入できなかった国々は、包括的経済制度を導入できさえすれば、今の先進国が今より貧しくならずに発展途上国が今の日本くらい豊かになれるの?」という問題である。これはどうなんだろうか。*1これは究極の問いだ。なぜなら、経済はトレードオフと相場は決まっていて、どこかの国が今より豊かになるとすれば、どこかの国が今より貧しくなるのは確実だからだ。そして、この問題が解決されないかぎり、アセモグルが解き明かしたかった「貧富の差」の問題は謎に包まれてしまうことになる。そして今のところ、本書ではこの問いに対する答えは書かれていないように見える。

3つ目は、「地理説はそんなに簡単に否定できてしまうものか?」というものである。結局1つ目の「なぜ包括的経済制度を導入できた国々は導入でき、そうでなかった国々はそうできなかったのか?」という問いにつながってくるけれど、この問いに対する答えを供給する有力な手段として、依然地理説は残り続けると思う。包括的経済制度を導入できた究極の答えはおそらく、エリート層が簡単に自分たちの欲しい資源を独占・収奪しなくとも手に入れられた、というものになるだろうけれど、それが実現可能だったのは結局その国の位置していた場所がよかったからに過ぎないし、その国で栽培可能な作物が、無理をしなくとも潤沢に生産可能だったからだろう。そのように、人間が最低限生命を維持できる余力があったからこそ、エリート層は資源を独占・収奪せずに済み、結果として大衆の要求をのめる余裕が生まれたはずである。だから、包括的経済制度を導入できた、とも言えるのではないだろうか?

締め方がわからなくなってきたが、一旦上巻を読みきったので疑問をメモがてらおいておこうと思う。

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

*1:今の日本くらい豊かになれるというのは曖昧で結構難しい定義かもしれないが、一人あたりGDPいくら以上、みたいな話だと思っていただければと思う。

『聞くだけで自律神経が整うCDブック』という本

いや、単に気になっただけである。怪しい、とかそういうことは思っていない。口コミ評判で上々そうだったので買ってみた次第。使ってみた効果については、今のところよくわからない。

私個人としては、著者の小林弘幸氏にはいくつか質問がある。

まず『聞くだけで自律神経が整うCDブック』の前提についてだが、おそらくあまり難しいことは考えたくないお茶の間の主婦あたりがターゲットなのだろう。したがって、普通の人がこの本を読んだ際に下記のような疑義が生まれてしまうのは致し方ないように思う。なぜなら、医学的根拠などを正確に説明し、それによって『聞くだけで自律神経が整うCDブック』が厚くなりすぎると、お茶の間の主婦には手にとってもらえなくなるからだ。そこは了解している。

その上で、あえて下記の質問をしてみたい。

『聞くだけで自律神経が整うCDブック』のモニター実験結果について

  1. 16ページから19ページにかけて、口コミ効果みたいな「モニター実験結果」なるものが示され、20ページにおいて「どうですか?このCDの効果を実感してもらえましたか?」という流れになっているけれど、さすがに「おいおい」と口にせざるを得ない。このあたり、どうなってるんでしょう?論拠となる論文とかあればぜひ読みたいところ。(個人的には、実験に際しいろいろモニターの条件を揃えたと思うんだけど、その条件とやらがとても気になる)

『聞くだけで自律神経が整うCDブック』に頻繁に登場する「医学的根拠」という言葉について

まず、「医学的根拠がある」とは、「学会で認められた論文がどこかしらに公開されていること」と定める。要は、論文になってるかどうかだ。

  1. 「このCDは医学的根拠をもとにしたオリジナルCD」と32ページにあるけれど、その「医学的根拠」を知りたい。論文ください。あと、1日10分聞くもよし、1日中流すもよし、っていうのはなぜなんだろう?10分流したときと1日中流した時の効果が変わらないんであれば、1曲(約3分)聞くだけでも効果があるってことだよね?その辺の実証結果はあるんでしょうか?論文ください。

  2. 「ヒーリング音楽とは違います。なぜなら、医学的根拠にもとづいて作られているからです。」と36ページにあるけれど、この「医学的根拠」とは。ヒーリング音楽との違いのところで、次頁にていろいろ記述があるけれど、これは「『聞くだけで自律神経が整うCDブック』のCD」でなければならない理由にはなりきらない。なぜなら、ヒーリング音楽においても同様の「繰り返し」みたいなものは存在するように思われるからだ。また、ヒーリング音楽否定の理由が「自律神経を整えることを目的に作られていないから」ということになっている。これは消極的な理由であって、もう少し積極的な理由がほしい。論文ください。

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ここからはあえて、『聞くだけで自律神経が整うCDブック』のCDの役割を好意的に捉える。おそらく「呼吸を整える」ところを主眼において作られている可能性はあるかなと思っている。本の後ろの方にも、呼吸に関する話が出てくる。呼吸を整えるというのは自律神経の調整には結構重要な要素で、たとえば座禅とか瞑想が自律神経の調整に効くのは結局、呼吸を整えるからとよく聞く。

だから、たとえばこのシリーズで「塗り絵」なんかも出てるみたいだけど、塗り絵も呼吸が整うよう設計された塗り絵なら当然効果がある。究極、呼吸の整う小説みたいなやつを出版しても自律神経に効くって言えるかもしれない。(そんなに「自律神経学会」が甘くないことを願うけれど)。

まあでも、この論理が正しいとすると、わざわざCDを聞かなくても、呼吸さえ整えれば自律神経の復調には大きな貢献をするのではないだろうか。その点、「普通にYouTubeで拾えるヒーリング音楽」との差異がイマイチよくわからない。

だからこそ、なぜ、この音楽たちである必要があったのか、その論拠を知りたいなと単純に思った次第である。論文を探してもどこにもなかったので、ぜひください。(検索したけど、CiNiiにしかないというオチはあったけれど、なんとか読んでみたい次第。)

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余談になるけれど、医学的根拠ってやつは、ほんとうに慎重に見定める必要があると思っている。医学というのは、どうしても一般の人には馴染みのない分野だから、騙されやすいといえば、騙されやすい。しかも、わりと勉強しづらい(っていうか、そういう本高いし、どこから手をつけたらいいかほんとによくわからない)。で、気づかぬ間に法外な金をとられることもある。

これは金融業界の人間だから思うこと、なのかもしれない。結局、こういう素人がなかなか近づきづらい業界というのは、知識のある方がどうしても優位になってしまう。素人ができることは、こうやって論理の欠陥と思しき箇所をチクチク刺して、自分で疑義を解消していくことくらいしかないのだ。

一方で、素人が医学的根拠に関してあまり口を突っ込まないほうがいいこともあると思う。結局、臨床こそ根幹であって(私の勝手なイメージ)、それをしていない素人がいくら頭で考えて医者に突っかかったとしても、「で?」という話になるのは当然だからだ。論文にはなっていないけれど、多くの人に施術してみた結果、こう言えそう、ということが山程あるかもしれないからだ。

まあその辺を考慮して、それでもこの本の効果を信じるというのであれば、それはそれでいいんじゃないかと思う。口コミで結構「効果がある」みたいな感じで広まっているのは事実。

聞くだけで自律神経が整うCDブック

聞くだけで自律神経が整うCDブック

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

追記:20160508

この手の本が気になって、本屋の家庭医学コーナーに足を運んでみたけど、ゴミの宝庫優秀な医学的根拠を持つ本の宝庫でした。万華鏡を使って健康を維持しようぜ!万華鏡はヨーロッパで生まれたんだぜ!データはこんな感じだぜ!(どうやって被験者を興奮状態にし、沈静化させたのか一切書いてないぜ!それって、ただたんに時間が経っただけなんじゃないか!)みたいな感じの本までありました。あとは、変な棒を使って視力回復しちゃうぜ!っていう本まで・・・

『純粋理性批判』ノート

*「感性」と「感覚」の違い。これを世の哲学者はどう考えているんだろうか。読む限りでは、感性→感覚の順に対象が流れ込んでいくように思えるんだけど、でもカントの書きぶりだと、感性と感覚は実は同時刻に通過するもので、しかもお互いに重なりあう箇所があるとも読める。解説書か何かで、図になったものがあると嬉しい。

*「感性」と「感覚」のあたりを読んで思ったんだが、哲学の弱点は自然言語を使ってしまっていること。結局、意味が一意に定まらない。絵にするか、数式でかきあげるかどちらかにしてほしい。でも昔の基準だと論文に絵はご法度だったのかも?よくわからないけど、なぜ哲学者は絵を使いたがらないのか不明。数式でかきあげるっていうのは相当に難しい。一番の理想は、これから出てくる概念を記号にして、それを巻頭に書いておいて、あとは記号にしたがって議論をすすめる、みたいな感じか?あるいは挿絵をはさむか。

*空間がアプリオリであることは納得がいった。カントの説明では、あるものを仮になくしてみたとして、それでもそのものが存在していた空間は残るよね、だから空間はアプリオリなんだよ、みたいな感じだったかと。たしかにその通りだ。

*しかし一方で、時間がアプリオリであるというのはイマイチ納得がいかない。カント自身も、時間のアプリオリについては口を濁しているように思う・・・。空間の議論はどの動物も同じように認識できると思うんだけど、時間については、人間以外の動物が「過去(時間が経つ)」という概念を持ち合わせているかとそうは思えないんだよね(犬は過去を感じない、というくらいだし)。だから、時間は人間がその経験の中で生み出してきた概念なのではないだろうか、という疑念が払えない。

*あと、時間概念を持ち出すとやはり「〈存在する〉とはどういうことか」が絡んできてしまう。僕の考えでは、時間と存在とは切り離しようがないものだからだ。この辺はハイデガーやっぱ目のつけどころすげーってなるけど、ハイデガーも上の「〈存在する〉とはどういうことか」について、何も結論を出していなかったりする。

*先験的論理学あたりで展開されるカテゴリー論については、やはり多くの学者がいうとおり少し無理がある。というか、このカテゴリーに分類されたそれぞれの項目が果たしてひとつひとつ本当にアプリオリなのか?という議論をする必要があるような。僕は「関係」とかは怪しいと思っていて、たとえばビッグバン以前の宇宙に「関係」は存在しうるのか?って話が置き去りにされている。

*そして、やっと今回『純粋理性批判』を読む動機となった「統覚」が登場した。統覚は悟性の上位概念、みたいな感じ?現象学で出てきてなんだこれはと思って調べたら純粋理性批判が発端とのことで。はやく続きを読みたい。

以下、余談

*あと、悟性(Verstand)の訳は「知性」でいいんじゃないかなという気がしないでもない。

*『純粋理性批判』を本格的に読みたいのであれば、ヒュームの『人性論』は必読書。ヒュームも基本的にはカントと似た議論を展開して、認識について分析を加えている(「印象」とか)。あと、デカルトは一応読んでおいたほうがいいかと思う。今回僕は、現象学を軽く学んで、その中でフッサールがカントにとても影響を受けていそうだという直観から『純粋理性批判』を読むことにしたからわりとスラスラ頭に入ってくるんだが、普通に哲学史通りこの本を読むとしたら、相当骨が折れると思う。なぜなら、新しい(ように思える)概念がわんさか登場するからだ。もっとも、ヒュームさえ読んでいれば、既知の話をより小難しくした、みたいな程度の印象で済むのだけど。

*超厳密にこの本を読むと、一生かかっても何もわからない、みたいなことになりそうなので、細かい議論の筋道はおいておいて、「概念の理解」と「ストーリー」を理解することに終始する方向で。

純粋理性批判

純粋理性批判

『イデーン』をちょいちょい読み返して思うこととか

*GW、なんだかんだちょくちょく仕事があるし、予定が入ったりして完全に暇というわけには行かないけれど、おおよそ暇なので普段じっくり読めない哲学書を読み返す。今回は『イデーン』を軽く読み返した。

*正直、『イデーン』は、現象学の概念の整理編といった印象を受ける。まず、学問には事実学と本質学という分類があって、というところからはじまり、本質観取とはこういう概念で、還元とはこういう概念で・・・ということを延々と整理している印象。もちろん、フッサールのその緻密な作業のおかげで、論理の飛躍はほとんどない(ように感じる)。

*自分の知りたいのは概念ではない。概念は、フッサール本人の文章より、整理された解説書のほうがよほどわかりやすい。求めているのはそこではなく、現象学の概念の「使い方」の方だ。だが、案外これがどこにも載っていない。。。

*が、現象学というのは、僕自身はもっと「使える」方法論だと思っている。実際にフッサールが各概念をどのように使いこなし、どのように分析したかが『イデーン』に載っているか、というと実はそうでもない気がしている。すくなくともⅠを読む限りの話だが。還元ひとつをとっても、具体例はほとんどない。抽象的な論理が、驚くべき緻密さで重なっている。しかし、具体例がないものだから、我々凡人には、どうやって本質観取をするとよりよい本質観取になるかわからないし、還元はどのような手法で行うとよりよい還元になるかがよくわからない。

*「どのような手法で行うと」「よりよい」○○と書いたけれど、この「よりよい」は実はフッサールは嫌いだったんじゃないかと思えてくる。フッサールはもともと数学畑の人で、数学って”完全な”を容認する学問だから、その完全性の担保のために、あえて「よりよい」レベルの方法論は提示しなかったのかも。この辺は妄想でしかないけれど。

フッサールが具体的な方法で還元を行っていた箇所は、別所になるけれど『デカルト省察』の44〜47節のあたりだった記憶がある。そこで、どのようにエポケーをし、どのように無駄な要素をそぎ落として本質にたどり着くかを、フッサール自身が行っていた。あれは見事だったけれど、凡人にはまだまだわかりにくい。この辺を咀嚼して自分の方法論にできないものかと考えてはいる。今後の研究のネタになるかも。

*で、『イデーン』を一通り読み通してたどり着いた結論としては、カントを読まないとフッサールは理解できないなと。『純粋理性批判』は、学生時代にサラッと読んだだけで、授業やゼミでもあまりまじめに扱ったことはなかった気が。というわけで、純粋理性批判をしばらくは読んでみようかと思っている。仕事の疲れ具合と要相談、だが。

*『純粋理性批判』を少し読み返してふと引っかかるところが。分析的判断と綜合的判断の節のところで、主語Aという概念の中に述語Bが含まれるかどうかを問題にして、カントが簡単な例を出して説明しているところがあるのだが、これが全然納得がいかない。第一、概念Aの中にBが含まれるかどうかを整理するためには、そもそも概念Aの境界を設定してやる必要がある。ところが、この境界を設定してしまうと、そもそもアプリオリな概念じゃなくなってしまうような、と考えている。カントは綜合的判断の方をアプリオリに近いものとしてプラス評価気味に話を進めていく。でも、そもそも前提から怪しいかもしれない・・・などと思いながら、解説書をいつか紐解こう、と考えた。

*なお、本屋で棚を眺めていたら、ヤスパースが昔『イデーン』について学位論文を書いていたらしく、その本があった。値段は2400円で、かなり安い。買ってもいいかも。タイトルは忘れた。

ネットのウソ調査を見抜くために読むべき本ーー『「社会調査」のウソ』

日頃、新聞やネット記事にあふれている「調査」や「アンケート」をどれくらい信じられるだろうか?もし、それらが実は、信じるには根拠が薄すぎるものばかりだったとしたら?あなたはどうするだろうか。

実は、新聞の調査やネットのアンケート調査の結果というやつは、思った以上に信じるに値しないものが多い。なぜ、それらは信じるには早急かを教えてくれるのが、本書だ。

私たちは、もっと巷にあふれるアンケートや調査の類を批判的に見るようにしなければならない。誘導されてはならないのだ。

『「社会調査」のウソ』は、プロの社会学者である筆者が、日常生活で目にする新聞記事の調査や市民団体が集めるアンケート(筆者は、本書中でひたすらこれらを「ゴミ」と称す)の「胡散臭いところ」をひたすらボコボコに解き明かしてくれる。この本を読むと、目の前にあるアンケートを少しばかり批判的に見る力を養うことができることうけあいだ。

たとえば、次のアンケートを見てみよう。みなさんも、どこが怪しいかを少し考えてみてほしい。

「総合職女性6割『昇進など不利』/8割が『能力発揮』/『仕事続けたい』7割 この調査は総合職制度を採用している企業360社の女性を対象に、前年(1993年)の9月と10月に実施され、744人から回答を得た(続く) 『「社会調査」のウソ』p.29

この調査の問題点は、下記のとおりだ。(随分古い時代の調査だが、今でも時々ネット記事でこの手のアンケートを時々見かける。新聞は、さすがにやらなくなってきているように思うけれど。)

  1. 対象が「女性」
  2. 有効回答数

まず、対象が女性であるということは一番の問題だ。なぜかというと、アンケートはあくまで他との比較によって初めて意味をもつもので、比較対象が一切ないアンケートだからだ。このアンケートは、男性にも行うべきだった。

次に、有効回答数もなかなかやっかいな問題だ。よく、統計学だと「サンプル数が」という議論になりがちだが、実はこういうアンケートの有効性を見る上で重要なのは、有効回答数の方なのだと筆者は言う。

なぜかというと、結局回答する人というのは、その問題に関心の高い人であることが多いからだ。そして、有効回答率が低くなればなるほど、その問題に関心のある人しか答えていない確率が高まることになる。結果、そのアンケートはバイアスだらけということになるのだ。

この有効回答数(率)という観点はなかなか新しい観点ではないだろうか。最近はやりの統計学の本で浅知恵をつけただけだと、アンケートを見るとすぐ条件反射で「サンプル数が」という話にもっていきがちだ。しかし、サンプル数というのはあくまで統計的な有意性を決める話だったはずだ。有意性というのは、「その調査に意味があるか?」ということを示す数値ではない。本当にアンケートの含意を知りたいのなら、実は有効回答率を見るべきなのだ。

ちなみに、この調査では有効回答数がよくわからない。

本書から学べる、私たちが「調査」を目にした際に気をつけるべきポイントをまとめると次のようになる。

  1. サンプル数:極端に少なければ当然、まず統計として意味がない。
  2. 有効回答率:上に書いたとおりで、この確率が低すぎるとそのアンケートは恣意的なものである可能性が高い。
  3. 答えた人たちの属性:とくに市民団体が行うアンケートは注意。答える人は、その問題に関心の高い人がほとんどという点を考慮すべき。
  4. アンケートの目的:自分の主張を正当化するためだけに強引なアンケートを行っていないか。
  5. アンケートの項目:5がわかれば、4をやっていないかどうかがわかる。

これらの注意点を、これから「調査」の類を見た際に、反射的に思い返すといいと思う。批判的な目を養うためには、格好の一冊としておすすめします。

生きる希望をなくしたら読みたい、『三十歳』

30歳が近くなってきた。まだ24だが。でも、20歳の人に親近感を感じるかというと、感じない。感じるのは30歳の人の方だ。なぜなら、社会人になってしまったからだ。

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30歳を目前にすると、いろいろ疲れる。なぜ疲れるか。人生の辛酸をすこしずつ舐めはじめるからだ。こんなことをいうと30歳以上の人に怒られるかもしれない。お前はアマチャンか!と。アマチャンで結構、だが、疲れているのは事実だ。

インゲボルグ・バッハマンなんていう詩人がオーストリアにいたらしい。こんな人、正直知らなかった。一部の文学好きの人の間では結構有名みたいで、アマゾンのレビューを見て、「次はこの本も訳してくれ!」なんて書いてあって驚いた。オーストリアには、インゲボルグ・バッハマンの文学賞みたいなものまであるらしくて、それが文学をやる人の登竜門になっているらしい。

けど、バッハマン自身はどうやらローマに住んでいたようだ。亡くなったのもローマ。自宅で、タバコの火が自分の身体に燃え移ってしまって、結局全身やけどで10日後に亡くなったらしい。彼女はローマに住んでいた。だから、この本にもすこしだけど、ローマの記述が出てくる。

そんな詩人だったバッハマンが小説にもチャレンジ(?)して、その短編集が収録されて一冊の本になった。それが、『三十歳』という本だ。哲学の博士号までもってるような人だからか、内面的な描写が非常に優れている。内面描写モノの好きな僕としてはドツボだった。

『三十歳』は、要するに次のような主人公が登場する。

それまでの彼は、日々単純に生きていた。毎日何かしら違うことを試み、悪意を持たずにいた。自分にたくさんの可能性を見いだし、たとえば、自分は何にでもなれると思っていた。偉大な男、人々の目標となる存在、哲学的知性。

そんな彼が、三十歳を迎えるにあたって急に、人生を見直したくなった。そして、彼は旅に出ることになる。そこからの話はちょっとネタバレっぽくなってしまうので割愛する。けれど、非常に三十歳(というか、若者)の内面をよく描写できていると思う。

人が変わるタイミングというのはいくつかある。誰かとの出会い。あるいは、どこか新しい環境に住み始める。けれど、僕が思うに、大学を卒業してしまうとなかなか誰かとの出会いによって自分が変わったり、新しい環境に住み始めて自分が変わったりすることは難しいと思う。なんというか、10代や20代前半のころと比べて、「感受性」が変わってきてしまっている気がするからだ。

感受性ということばは便利だけど難しい。僕が思うに、感受性が以前と違うというのは、何に対しても「感動」を特段抱かなくなったということだ。人生経験を積んだといってもいい。あるいは、仕事で疲れていると言ってもいい。若い頃のように、本を読んで「うおお!すげえ!」という感動を抱かなくなったと最近思う。書店を歩いていてもワクワクしなくなった。

それと変わって最近つねに求めていることは、日々が同じように繰り返してくれることだ。アブノーマルな事態ーーたとえば、先週のようにマーケットが大荒れするとか——が起きると、「やめてくれよ」と思うようになっている。年をとったなと思う。大学生のころの自分はむしろ、日々に変化があることを求めていたから、ある意味成長したのかもしれないけど。

そういうわけで、人は人生経験を積むと「変わる」ことが容易ではなくなる。人を変えるキッカケも容易ではなくなるから、旅とか人との出会いで大学生のころのように感動して変わる、なんてことはなくなる。Facebookを開けば、世界一周で人生変わっちゃった!と言っている人が多くいるけど、彼らは結局のところ、若くて感受性がまだ豊かなだけだ。

20代でさえそう思い始めているのだから、30代はさらに疲れるんだろうか。よくわからないが。

でも、30歳になるということはどういうことなんだろうか。感受性以外にもある。話を聞く限りは、30歳になると、人よりも優れた何かを持ち始めないといけない年だ。そしてその人よりも優れた何かは、20代のうちに蓄えておく必要がある。主人公も、そろそろ気づき始めたようだ。

いまのように三十歳を前にして幕が上がる瞬間が来ることを、彼はこれまで一瞬たりとも恐れなかった。「アクション」の声がかかり、自分がほんとうは何を考え、何ができるのかを示さなければならないこと。そして、自分にとってほんとうに大切なものは何か、告白しなければならないこと。千と一つあった可能性のうち、ひょっとしたら千の可能性をすでに浪費してしまったこと、あるいは、自分に残るのはどっちみち一つだけなので、千の可能性を無駄にせざるをえなかったことなど、彼はこれまで考えもしなかった。

思うに、主人公はそういった「何か優れたもの」を得られたように感じられず、人と自分を比べて自分には何もないことを気づいてしまった。結果、自分の人生を見つめ直したくなって、自分を変える旅に出たのではないだろうか。そういう気分になること、一度や二度経験した方もいるはずだ。まあ、そんなところだろう。

彼は迷って旅にでる。が、何も変わるものはなかった。昔を思い出すだけで、結局過去の奴隷となるに過ぎなかった。最終的に彼を変えたのは生死をさまよう経験だった。そうして、生きていることを実感する。

結局、年をとってしまうとガツンと来る経験しか自分を変えてくれるものはないということか。それは、自分が死に近づけば近づくほどよい経験、ということになるんだろうか。でもそういえば、とも思う。

僕が大学に入学する年にちょうど、東日本大震災があった。ちょうど受験のために千葉にいたが、見事に地震に遭った。その時以来、自分がいつ死ぬかわからないことを悟った。こういう経験があると、自分の人生は有限だということを嫌でも知る。そしてそういう経験こそが、人の生きる意志を生むのかもしれない。生きる意志があるうちは、人は自分を変え、より優秀であろうと思うだろう。

もっとも、うつになってしまったらこんなこと言ってられないんだけども。

三十歳 (岩波文庫)

三十歳 (岩波文庫)

『世界システム論講義』は歴史に興味があるなら一度は読んどくべき。

『砂糖の世界史』や、ウォーラステインの世界システム論講義を翻訳した川北先生の本。世界システム論とは、世界を一つの有機体だと捉える考え方のこと。世界システム論によれば、世界は「中核国」と「周縁国」に分かれる。そして、その国と国同士がお互いにどのような役割をになっていたかを分析する手法だ。

世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)

世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)

筆者は本書の最初の方で、「先進国」と「後進国発展途上国)」とに分類する現代の考え方に対して疑問を投げかける。それはほんとうに正しいのだろうか、と。ある国を「先進国」とみなし、ある国を「後進国」とみなすことには、国が一つの目標に向かって発展し、その目標の達成度合いでレベルが決まる、という前提を容認することに等しい。

そして、この考え方が普及したのも「世界システム」によるものだと筆者は考える。なぜなら、世界システムとは「中核国」が「周縁国」を従属させる仕組みそのものだからだ。従属した周縁国は当然、中核国の思想を徐々に受け入れることになるだろう。こうして、イギリスやアメリカが考えだした発展観が、全世界を席巻していくこととなった。

現代の資本主義も、この「世界システム」がなかったら発展しなかったと言っても差し支えないと思う。なぜなら、資本主義はつねに「周縁」を搾取しながら発展してきたからだ。言い換えれば、フロンティアという存在を発見し、そこを制服していくことによって資本主義は発展する。現代で言えば「オーシャン」——それは青でも赤でもよかった、青か赤かは制服のしやすさの違いでしかないから——を追い求め、そこを攻めることによって資本主義は発展した。

世界システムを考えることは現代の資本主義経済の本質に迫ることだ。

本書は最初はスペインとポルトガル、その次はオランダ、そしてイギリスの歴史を扱って、最後にすこしだけアメリカに触れる。世界のヘゲモニーの変遷についていくような、そんな構成になっている。もともとは放送大学のテキストだったらしいが、俯瞰的に、だが深くヨーロッパ史を学びたい方は読むべき。

現代生活の多くの「正しい」とされる価値観は、近代が作った幻想かもしれない

イギリスやアメリカが世界のスタンダードとなったのはここ200〜300年の間くらいだ。そして、ここ200〜300年くらいの間に、人類のスタンダードも変わってしまったのだなと本書を読みながら思う。

本書の中では、イギリスの産業革命以前の労働について一瞬触れられるのだが、私にはこれがまず印象に残った。産業革命以前のイギリス人は、日曜には深酒をし、月曜日は休むという聖月曜日と呼ばれる習慣があったそうだ。ほかの曜日にかんしても、結構ダラダラ働いていたようである。それが、産業革命によって、朝は決まった時間から働き、夜も決まった時間まで、しかも次の朝は早いという生活を送るようになった。現代の労働形態も、産業革命によって作られたと言ってもいいのではないだろうか。

さらに、イギリス人にはもともと朝食の習慣がなかったらしいのだ。イギリス人はもともと一日二食だった。一日三食食べるようになったのは17世紀中頃らしい。要するに現代の人間の「正しい」と言われる生活習慣でさえ、実は普遍的に正しかったものではなくて、近代になって生み出された新しい価値観だったのだ。

僕はこういう歴史の本を読むたびに、現代人が盲目的に正しいと信じているものは案外〈つくられたもの〉であって、未来永劫それが正しいと言われつづけることもないんだなとつねづね思う。現代の労働環境だって、所詮は近代人が作り出した「世界システム」発展のための道具にすぎない。世界システムの発展はたしかに人類の発展をもたらしたかもしれないが、どこに貢献していたのかは十分ん見定めておかないと、くだらないことで自分の身を滅ぼすことになるかもしれないとさえ思う。

でも、難しい点がある。それは、それでも近代の価値観——たとえば、朝は9時に出社して規則正しく働き、朝食はきちんと食べ、三食きっちり摂る。恋愛をして結婚をしていい旦那あるいは女房と共同生活を送る、「自由」、「平等」等——によって人類が発展してきたという事実だ。産業革命を経て、世界全体のGDPは比べ物にならないほど伸びた。今こうして我々が飢え死にすることなく、病気で生涯を閉じられるようになったのも、近代の新しい価値観のおかげなのだ。

一方で、近代の価値観に苦しめられている人もいる(”全員じゃないけど”)。代表的なのはサラリーマンだろう。みんな、朝が辛いのは産業革命のせいなのだ。酒に飲んだくれると怒られるのも、産業革命のせい。ついでにいうと、イギリスの飯がまずいのは産業革命でまともに調理する時間がなくなったからだと言われる。産業革命は、たしかに人類に発展をもたらしたが、一方で人類から大事なものを奪っていったのも事実だ。

だから、近代の価値観を諸手をあげて「正しい」と賞賛することはできない。

さらに話はそれるが、この話は、突き詰めると哲学的な「ある思想が正しいとはどういうことか?」という話に行き着く。これは結構難しい。この問いをさらに突き詰めると、「時代が変わっても普遍的にだれにとっても正しい思想はあるのか?」という問いに行き着く。これは最終的には、「客観的なものは存在するか?」という古来からの哲学議論に行き着くだろう。

この問いに答えるのは難しい。僕自身は、一番賢い姿勢は「うまいこと使い分ける」だと思う。今の日本の政治家のように、かつての近代の価値観だったGDP志向主義にすがりついていては、時代の流れに置いていかれる。たしかに近代の新しい価値観は人類を発展させた。だが、今後も発展させてくれる保証はないのだ。次の新しい価値観を時代は必要としている。

そんなことを考えさせてくれる本書はやはり、いい世界史入門の本だと思う。

知の教科書 ウォーラーステイン (講談社選書メチエ)

知の教科書 ウォーラーステイン (講談社選書メチエ)

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

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