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気まぐれに書評とか。

考えるな、感じろ――『反解釈』

少しお固めの本をいきましょう。最近Twitterでおもしろいツイートが流れてきて、そういえばこの話、ソンタグが昔似たようなことを言っていた気がすると思い出して、改めてこの評論を読み直してみました。『反解釈』です。

いや、改めてツイートを読み返して思ったけれど、やはり違うかもしれない。でも、読み返したしせっかくなので書評しておきます。

反解釈の大まかな流れとしては、「作品の意図を考えるな、感じろ」というものです。ソンタグは、古代ギリシャ以降、ヨーロッパには芸術作品の「形式」よりも「内容」を重視する傾向が生まれてしまったといいます。昔はただ単に像などを作っていたけれど、徐々に「この像にはこういう意味があって、この部分はこういう意図で作っていて…」ということを重視し始めてしまった、ということです。たしかにそのような傾向は認められますよね。

ヨーロッパ人の芸術意識や芸術論はすべて、ギリシアの模倣説あるいは描写説によって囲われた土俵のなかにとどまってきた。この説によれば、必然的に、芸術というもの自体が――個々の作品をこえて――疑わしいもの、弁護と必要とするなにものかにならざるをえない。この弁護の結果、奇妙な見解が生じてくる。すなわち、あるものを「形式」と呼びならわし、またあるものを「内容」と呼びならわして、前者を後者から分離するのだ。そして、いとも善意にみちた動機にしたがって、内容こそ本質的、形式はつけたしであると見なすという次第だ。

こうして、芸術(いや、あるいはその他のさまざまなものを)「解釈する」という試みが始まってしまうことになります。ソンタグのいう解釈とは、「自覚的に精神を作用させて、ある一定の解釈の法則、ルールを例証すること」を意味しています。要するに、自分の思考のフレームにはめ込んで作品を解釈してやろうという試み、といったところでしょうか。

解釈は絶対的な価値をもったものではありませんが、しかし「思考の枠にはめる」行為である以上、「別の似た何か」を追い求める作業にほかなりません。芸術作品に解釈を当てはめるとはそういうことです。つまり、芸術作品を自分たちの実体や生活と紐付けて、なんとか自分たちに関連付けようとする作業、ということです。しかしこれは、芸術作品本来の姿でしょうか。私はそうは思いません。

なぜなら、芸術作品というのはやはり、人間が考えつかないようなことを生み出す作物であってほしいからです。というか、作者たちはおそらくそのつもりで作っているでしょう。しかし、周囲の人間が「解釈」という行為を行ってしまうことで、新奇性が一切なくなり、その芸術作品はのっぺらぼうな姿へと変貌してしまう。これが昨今の芸術作品の批評の問題点だ、とソンタグは言います。私もそうだと思います。

当然、芸術作品を作る作者たちもそのことに気づき、そうして芸術作品はどんどん抽象化を遂げていきました。いい例が現代アートでしょう。現代アートを見ていると、ときどき見るものの思考を停止させてしまうような抽象度を持ったものが現れます――「これはなんだ」と見るものに思わせるような作品たちです。しかしそれこそが、作者の狙いなのでしょう。

同じことが、じつは現代思想にも言えるのではないか、と個人的には思います。ポストモダンの類のものですが、それらの思想を担った書物は往々にして抽象度が高く、いかようにも解釈でき、また一意に意味の定まらない文体で書かれています。これは、それを書いた著者が解釈を嫌ったからにほかならないのではないでしょうか。「俺の考えは、そう簡単に言葉で表せるものではない。ああでもないこうでもない…」という感じ。これが、ポストモダン思想には流れているように思います。

人生論として読んでみるのもありかもしれない

人間は、「意図」「目標」などを定めようとしすぎてしまっているのかもしれません。いい例が「生きる意味」でしょう。そもそもこの世の中に生きる意味は一つなのか?そうではないでしょう。であれば、ソンタグの言うとおり、「もっと感じろ」というのが正解になりそうです。もっと、人生を素直に楽しむようにしたら、きっと「生きる意味」なんてものは考えなくなるかもしれません。

ソンタグのこの批評は、仕事の現場などで生きづらさを感じている人たちへのエールになるかもしれません。その仕事に確かに意味はないし目標もないかもしれない。でも、純粋に没頭して楽しむことは、その人の心持次第でどうにでもなる。それこそが、今の時代に求められている芸術作品あるいは人生の「愉しみ方」なのかもしれません。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

女ごころは残酷だ――『女ごころ』

サマセット・モームにハマって第三弾を読んでみました。『女ごころ』という作品。この本は、ページ数が少なくすぐに読み終えられるので、モーム入門にはいいかもしれません。

女ごころ (ちくま文庫)

女ごころ (ちくま文庫)

主人公はイギリス出身の貴族階級の女性。現在はイタリアに住んでおり、エドガーという男性からプロポーズを受けます。この男性、近々インドの提督になることを約束されたすばらしい男性ですが、歳が20歳上。昔から主人公の女性のことを知っていて、少女の頃から彼女を愛していたそうです。長年の恋、ようやく実ったといったところでしょう。

ただ、エドガーからプロポーズを受けたとき、返事を渋ってしまいます。2、3日待ってからもう一度返事をすると言って、一旦彼との今後を考えることにしました。そんななか、晩に参加したパーティーで事件が起こります。チャラくて浮気性の男(と噂されていた)ロウリー、さらにそのパーティーにたまたま招かれていた下手なヴァイオリン弾きであるカールと出会うことになりました。

途中からロウリーに口説かれ始め、車に乗って少しドライブしたところでやっぱりロウリーが気に入らず、いったん自分の家に引き返す途中でヴァイオリン弾きのカールと出会います。そこからカールを自分の家に引き込み、話をしているうちにカールに惹かれ、カールとワンナイトラブを過ごしたところで事件は急展開。カールが主人公との永遠の関係を迫りますが、主人公にその気はなく、カールはなんとその晩に彼女の部屋で自殺してしまいます。ここまで、経過した時間を想像すると半日も経っていない。プロポーズを受けてから12時間くらいと言ったところでしょうか。

その後、カールの遺体を巡って主人公はほんとうにどうしようかわからなくなってしまいます。遺体を隠すべきか?それとも、知らない男を家に招き入れたことを白状するか?迷ったとき、ロウリーの存在を思い出します。そして、ロウリーに連絡を入れてしまう。

で、ここからロウリー登場であとはわかりますね。女としてはやはり、捨てられるとわかっていても、傷つけられるとわかっていても、危険な男性を求めてしまうということがよく描かれています。

『女ごころ』というタイトルですが、男ごころについてもなかなか深い洞察があって、とくに次のロウリーのセリフが好きだなと個人的には思いました。

知るかぎり、僕が自由にできる人生はこの一回だけ。とっても気に入っているよ。折角与えられた機会を活かさなかったら、それほどバカなことはないじゃないか。僕は女が好きだし、不思議なことに、向こうも僕を好きらしい。僕は若いし、若さなんていつまでもあるものじゃない。機会が与えられている間に、できるだけいい思いをして何が悪い?

このセリフからもわかるように、ロウリーは、噂では浮気性で何も考えない男などと言われてみましたが、実は意外に冷静で策略家で思慮深く、そこに主人公は惹かれてしまったのでしょう。最後、結局エドガーとは婚約することなく、ロウリーと人生をともにすることを選びました。

サマセット・モームの魅力

いったいモームのどこがおもしろいんだ、と言われるとなかなか難しいです。今回の『女ごころ』も、正直時代が違いすぎますし(なんてたっておそらく60〜70年前のイタリアが舞台ですから)、日本とヨーロッパとでは文化も違いすぎます。そもそも夜にパーティーなんてそう頻繁にこの国ではやりませんしね。貴族階級なるものも、とうの昔になくなってしまっています。

が、人間の本質って文化によらずどこか変わらないところがあって、心を許してしまった相手であればやすやすと部屋に招き入れてしまいますし、その後どうなるかを考えずに勢いと思いつきで行動してしまうところもまた、文化の差ではなく人間の本質なのかもしれません。そういった人間ってこういうところあるよね、がふんだんに作品内に散りばめられているのがモームの魅力なのかも、と個人的には思います。

大女優はこういう恋愛をする

サマセット・モームにハマって、短編集を読み、その次に『劇場』という本を偶然近くのブックオフで発見し、読んでみました。ブックオフで買った際にこの本に新聞の切り抜きが挟まっていて、その記事に『劇場』の映画の話が書いてあって、とても興味をそそられ買いました。

まず結論からいうと、これは映画になって然るべき作品で、映画にしてもとても楽しめる作品だと思います。ある若い女性が激しい恋をしながら大人の女性になっていくさまが、綿密に描かれています。舞台女優という職業柄、どうしても恋がないとすばらしい演技を続けられないのでしょう。最後は演技によって、自分自身を縛っていたしがらみを振りほどいていく。それが描かれています。

主人公ジュリアはイギリスの大女優です。その大女優は、イギリス一の美男子との呼び声高いマイケルと結婚します。しかし、美人な彼女は、たくさんの魅力的な男性たちに言い寄られ、多くのアバンチュールを経験します。その中でトムという若い男性にぞっこんになります。

しかし、トムはまだ若く、彼も別の女性に惹かれ…で、トムに嫉妬してジュリアは大変なことになります。最終的にはトムに振られ、失恋期間を過ごすことになり、そのときに支えてくれたのがマイケルでした。

それまでマイケルとは良好な関係とは言えず(最近よくある中年離婚しかけの夫婦ですね)、マイケルを疎ましく思っていました。しかし、マイケルは長年なんだかんだジュリアをずっと見てきただけあって、優しくジュリアを慰め、ジュリアを再び舞台に立たせることになります。マイケルはちなみにトムやその他の男性とのアバンチュールには気づいていないように描かれています。

個人的には最後のほうでジュリアが立ち直って、舞台上でトムの惹かれた相手を熟達した女優の力量でコテンパンにしてしまうシーンが好きで、スカッとしました。終わりがとてもスカッとする小説です。サマセット・モームは本当にストーリーの進め方がうまいですね。次もまた読んでみようと思いました。

劇場 (新潮文庫)

劇場 (新潮文庫)

読了後、精神年齢が少し上がる(かもしれない)――『月と六ペンス』

買ってしばらく経ってしまっていましたが、ようやく読み終えました。あまりに有名すぎる本。サマセット・モームの本。「六ペンス」とは富の象徴で、その意味かと思ってWikipediaを開いてみたら、そうじゃないらしいです。月とは夢のことで、6ペンスとは現実のこと、だそうです。そういえば Sixpence None the Richer というアーティストがいるけれど、その6ペンスとは意味が違う模様。たしかに、と本書を読了してから思いました。

Sixpence None the Richer は Kiss Me という名曲がありますね。この曲も、中に moon light とか月に関連する詞が出てきて、もしかしてこの本と関係ある?と思うかもしれませんが(げんに、読む前は思いました)、読了後わかるとおり無関係のようです。


Sixpence None The Richer - Kiss Me (Official HQ)

この本は、とくに若い女性に読んで欲しいです。とくに、恋愛経験の少ない女性に読んで欲しい。あるいは、最近男に傷つけられた女性にも。そして何より、男心がさっぱりわからない女性に読んで欲しい。女心もなかなか難しいですが、それと同じくらい男心というやつも難しいです。反故にするとすぐに女は捨てられます。その際、男のほうがより残酷に捨てると思います。そのことがよくわかります。

男心の核心をひとことで表すというのは愚かな行為かもしれませんが、誤解を恐れずにひとことで表すなら、「放っておいてくれ」ということです。男はプライドの高い生き物で、自分の世界をあまり干渉されたくない生き物です。それはストリックランドの振る舞いを見ていればわかるでしょう。自分の世界とはどういうことかというと、自分の理想です。それを失った時、あるいは邪魔をする女が現れた時、「放っておいてくれ」という気持ちになるのです。

それはすでに結婚した妻に対してでも容赦ないときがあります。女も確信を持つと突っ走って人のいうことを聞かなくなる傾向にありますが、男も同じなのです。ただ男と女とで唯一違うところがあるとすれば、女は多少の情を持って「捨て」ますが(それが「距離を置く」なんていう行為になって現れる)、男はバッサリと切り捨てます。情よりも自分の理想が優先されます。ストリックランドを見ているとわかると思います。

男の生きざま、というやつは次の一節によく描かれています。そして、それは多くの女性の感覚とは相容れないものだと思います。だからこそ、男女はどこまでいってもわかりあえないのです。いうなれば、別の惑星から来た生き物なのです。

安定した生活に社会的価値があることも、秩序だった幸福があることもわかっていた。それでも、血管をめぐる熱い血が大胆な生き方を求めていたのだ。安全な幸福のほうにこそ、空恐ろしいものを感じていた。心が危険な生き方を求めていた。

一方で暖かい家庭を持ちたいと思いながら、他方では仕事で成功を収めてお金をたくさん稼ぎたい、という矛盾した願いを抱いている人間がいるものです。もちろん、男女問わずです。人間とは本来矛盾した存在であり、気まぐれで、一筋に説明することが難しい存在でもあります。

サマセット・モームはそんなことはお見通しで、次の文章を本書の中に残しています。

わたしはまだ、人間がどれだけ矛盾に満ちた生き物なのかわかっていなかったのだ。誠実な人間にも偽善的な面は多くあり、上品な人間にも卑しい面は多くあり、また罪深い人間にも多くの良心がある。

そんな難しい存在に対して、自分の小さな色眼鏡でもって人を判断しようとするから、その人の一言で勝手に傷ついて心を閉ざす。そもそも人と接する際の前提が間違っています。「そういう人なんだ」というくらいの心持ちで他人には接しないと、精神がいくつあっても持ちません。

普段は優しい人でも、突然怒りたくなることだってあります。小さなことにムッとします。一方で、怒りっぽくて常にイライラしている人でも、優しい面を持ち合わせていたりします。誠実そうに見えて、意外に浮気症という人もいるくらいです。人間、ひとつのカテゴリに収まらないくらいいろんな性格を持った人がいます。

そういうことを教えてくれるという点で、この本は読み終えると精神年齢が少し上がるかもしれない。そんなことを思いました。

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

諦めずに読めばわかる――『重力とは何か』

一般相対性理論とか、量子論とか、本当は数式をきちんと読んでいくのがこの手の分野の正しい学習法だというのは痛いほどわかります。数式を読まずにわかったつもりになるのは危険です。しかし、専門家でない私たちはある程度の「感覚」が得られればそれでいい…そう考えている人は多いはずです。

そんな科学好きの一般読者に向けられて書かれたこの本は、「感覚」を得るにはうってつけだと思います。多少わかりにくい記述があっても、根気強く読んでいけば必ず理解できるように書かれている。それが、この本だと思いました。私も、何度かよくわからなくなる場所があったのですが、自分でネットで調べながら読んでみたらなんとかなりました。読書の楽しみを思い出させてくれました。

重力とは何か。これは難しい問いです。私の理解では、重力は鉄球とスポンジで説明できると思っていました。鉄球が大質量の物質で、スポンジがそれを受け入れる空間だとします。鉄球をスポンジの上に置くと、鉄球の周囲が凹みますよね。これが重力の正体なんじゃないかと。鉄球でできた凹みに向かって小さなパチンコ球を転がしてやると、パチンコ球は鉄球に引きつけられます。また、もしパチンコ球が鉄球の周りをルーレットのように回るとしたら、遠心力と重力とが釣り合って、公転のような現象が起きるかもしれない。そのくらいの理解でした。

本書ではじめて知ったのですが、重力を説明するには上記の話に加えて、「欠損角」という概念が必要になってくるとか。この欠損角があると、1周が360度だった空間が300度になったり、330度になったりします。そしてこの欠損角こそが空間の歪みの源泉なのだと。なるほどわからん、というのが正直なところですね。

個人的に興味をそそられたのは、あまり自分でも理解していなかった超弦理論のところでした。まず超弦理論とは何かというと、原子よりもさらに小さな宇宙の最小単位を研究する理論です。宇宙の最小単位は実はすでに存在自体は証明済みで、あとはそれを観測するだけなのだとか。そして、その最小単位を考えるのが超弦理論、というわけです。

原子よりもさらに小さな宇宙の最小単位のことを「ひも」とか「弦」と呼びます。この弦は6次元(!)の構造を持っています。なぜ「弦」と呼ぶかというと、ギターなどは、弦の震え方を指の位置で調整して音の高さを調整できますよね。あれと同じ原理で、宇宙の最小単位も弦の震え方を変えることで発現する状態が異なるからなんだそうです。

当たり前の話なのですが、超弦理論は宇宙の最小単位を扱う理論です。つまり、それ以上小さいものがない、というものの謎を解き明かす分野です。これは最も確実な理論なんじゃないかと思います。まずは「弦」の存在が観測されないといけませんが、あるといいななんて夢を抱かせてくれます。

手っ取り早く宇宙の最新理論について理解するのにオススメ

もちろん、この手の話は専門とするのであれば数式を見て、自分でその数式を解いてみてはじめて「理解した」といえるのは間違いないことなのですが、門外漢の我々にとってそれは手間暇があまりにかかりすぎます。だから、せめて最新の宇宙理論で扱われている概念のさわりだけでいいから理解したい、という人にはオススメできる一冊です。自分で色々調べていて思いましたが、本書はどうやらこの分野の基礎部分をいい感じに抑えているようです。

重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る (幻冬舎新書)

重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る (幻冬舎新書)

2016年上半期、読んでよかった本

長期休暇につき、たまには本のことを思い出して書かねば、という思いに駆られて書く。あまりいい言葉ではないけれど、今年は本当に忙しく、本を読む時間が電車の往復30分間だけ、という時期が数ヶ月続いています。したがって読んだ冊数も少ないですし、疲れて半分寝ながら読んでいた本もあるので、内容を覚えていないこともしばしば。

最近こんな記事を見かけました。半分あたっていて、半分あたっていないと思います。しかし、参考にはなります。

結論からいうと、デキるひとたちは集中したインプットをしています。 みんながみんなというわけではありませんが、頭の回転がすごいひとというのは事前に膨大な量のインプットをまとめて行っている可能性が高いです。 取り組む前にまとめてインプットしておくことで全体像を把握でき、また勉強にかかる時間も減らせる。 彼らはあまり語りませんが、実は裏でやっているというパターンがほとんどです。

デキる人の勉強法 優秀なプログラマは何をしているのか - ケーススタディの人生

この記事内で忘れられていることが1つあります。それは、集中したインプットを可能にするのは、日々の継続的なインプットである、という前提条件です。集中してインプットするということは、短期間に大量の概念を学習するということです。しかしそれは、普段ろくに勉強をしていない人には不可能な話です。

だから、継続的なインプットをし続けるためにも、寝ながらでもいいからとにかく文字を読むことが大切ではないかと思っています。そして、すぐには役に立たないかもしれないけれど、将来的にいつか役に立つかも、という意気込みで最近は本を読んでいました。そんな上半期の良かった本8選です。

とくにテーマがあって選んでいるわけではありません。「いい本」の基準は、どうやら読んだ時期によって違っているようです。もっとも、「いい本」はかならずしも役に立つ本ではないし、何かの役に立たせるために本を読んでいるわけではありませんが。

  1. 『職業としての小説家』

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

数々の小説を世に送り出してきた村上春樹の書く、ある種の自伝です。有名すぎる本かもしれません。この本から非常に多くの影響を受けたように思います。優雅に見える村上春樹ですが、しかし裏ではかなりの泥臭い勝負をしていた事実が明らかにされます。村上春樹はどちらかというと計画的に物事を進める方ではなく、自分の感性に任せて思いつきで進める方なように感じました。私も村上春樹と同じようなタイプなので、共感できるところが多々ありました。

何かを極めるには、1冊の本になるくらい思考できなければならないんですね。改めて、一流に上り詰めた人のすごさと強さを感じた一冊でした。

  1. 『BCGの特訓』

BCGの特訓 ―成長し続ける人材を生む徒弟制

BCGの特訓 ―成長し続ける人材を生む徒弟制

3回くらい読みなおした本。今読みなおしていたら、また読みたくなってきた。BCGはほぼ同業者なので、参考になることがとても多かったです。この本にかぎらず、成長する人、成長して一流に上り詰める人にはどうやらこの一文が共通して当てはまるような気がします。

BCGには、頭を使わず、ただこなすだけの作業は存在しない。

  1. 『「社会調査」のウソ』

世に言う「アンケート調査」がいかに怪しく、根拠に乏しいものかという話。さまざまな新聞のアンケート調査(筆者はそれを、「ゴミ」と呼ぶ)の欺瞞をつまびらかにする本。非常に影響を受けた。すくなくとも、新聞やネットのアンケート調査結果を疑って見る目はついた。

アンケート調査の大半は、「バイアス」を免れていないように思います。それはアンケート調査するターゲットに問題の大半があるようです。サンプルが少なすぎたり、サンプルを考えなしに選んだ故にサンプルの属性が偏っていたり、あるいは、自分の考えた結論を適当に裏付けたいがために、そうなりそうなサンプルを選んでいたり。テレビに多いですね。

  1. 文化人類学への招待』

文化人類学への招待 (岩波新書)

文化人類学への招待 (岩波新書)

いつか時間ができたときに、徹底的に学んでみたい分野、「文化人類学」。現代の社会問題を考えるときに、まずまっさきに考えるべきだと思うのが、「そもそも人間って、どういういきものなんだっけ」ということ。この視点って仕事をしているとどうしても忘れられがちなのですが、大事だと思うんですよね。仕事の場面では、常に理性を偏重することを求められるのですが、案外それが働く人を苦しめていたりする。そんな視点を提供してくれるのが、この文化人類学だと思っています。

あと個人的には、フランス現代思想のポスト構造主義あたりを深く理解するためには必須かもなあという考えから、読んでみました。

  1. 純粋理性批判

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

学生のときは特定の章だけしか読んでいなかったのですが、3週間くらいかけて通読してみました。思った以上にしんどい。いろんな概念が登場してきて、それらを整理しながら読まないとダメです。時間ができたときにじっくり再読しようかと思います。

アプリオリな総合判断は可能か、というのがこの本の主題なんですが、そもそもアプリオリなものって存在するんですかね。結局人間がいないとあらゆるものは存在しているとは言い切れないと思うんですが。でもそうすると、惑星とかのように人間が出現する太古からあるものはどうやって考えればいいんでしょうか?「存在」という言葉にそもそも誤りがあるんでしょうか?あるいは、言葉の限界なんでしょうか?そんなところを考えさせられます。

  1. 『実践ドメイン駆動設計』

実践ドメイン駆動設計

実践ドメイン駆動設計

これを読んで、とりあえずウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を思い出した。結局、チーム内の言語ゲームを理解しないと大規模システムの構築はうまくいきそうにないなと。そんなことより、個人的にはRepositoryとかEntityとか、そういうスニペットが非常に役立っています。コードを読むときに非常に役に立っています。一読の価値ありです。

  1. 『ギリシア人の物語』

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

古代ギリシャ好きにはたまらないですね。テルモピュライの戦いのところがやっぱ最高でした。これぞ塩野クオリティ。今年の年末にもまた出るんですかね?もちろん買いです。

  1. 『国家はなぜ衰退するのか』

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

国家間でなぜ貧富の差があるのか?その謎を解き明かす一冊です。個人的には、私有財産制の重要性を思い知らされました。

Mac OS XでPython2.xからPython3.xに切り替えた話

少し手元でPythonを使いたいタイミングが生じてきたので切り替えを行ったのですが、結構面倒だったのでメモします。いい方法を知らないだけかもしれませんが。今年の3月くらいに自宅用のMacBookProを切り替えたのですが、Pythonのバージョンを確認したところバージョンが2.7で、3.x系を使いたいけどどうすればいいんだろう・・・?と思って色々調べたまとめです。

なお、今回はpyenvを使用しますが、システム本体のPythonバージョンを引き上げればよいのでは・・・?という向きもあるかもしれません。しかし、システム本体のPythonを引き上げてしまうと、3.x→2.xに戻したい際に手間がかかるのと、色々ハマるらしいのでやめました。実際、pyenvで切り替えを管理するほうがはるかに楽だと思うので、そちらをおすすめします (2017-07-10追記: anaconda を使う手もあります。というか、最近はそうしてしまっています。)。

まずやること

当たり前ですが、この作業を始める前にひとつだけ確認事項があります。Pythonのバージョンを確認しましょう。

python --version

これで、Python 3.x.xと返ってきていれば、この作業はまったく必要がありません。一方で、Python 2.x.xと返ってきてしまった場合は、この作業が必要です。

手順

下記の手順で行えば、まともに動くかと思います。

  1. Homebrewをインストール:今回の記事では割愛しますが、インストールが必要です。
  2. pyenvをインストール:Homebrewを使用してpyenvを入れます。
  3. pyenvを使って、Python3.x.xをインストール:コマンドひとつです。
pyenvをインストー

Homebrewがインストールされていれば、下記のコマンドを打つだけでインストールできます。

brew install pyenv

しばらくすると、インストールが完了した旨のメッセージが出ます。念のため、下記のコマンドを打つと確実です。pyenvが入っていれば、バージョン情報が表示されます。

pyenv --version

それを確認できたら次の作業に進みましょう。

pyenvを使って、Python3.x.xをインストー

pyenvを正常にインストールできたら、次は環境変数を通す必要があります。結構面倒な作業で、初めてやるときは苦戦しますので、丁寧に見ていきます。

.bach_profileがあるかどうかの確認

まず、手元の環境に.bash_profileというファイルがあるかどうかの確認が必要です。ここに環境変数を設定しますので、このファイルが存在しなければ作成する必要があるためです。次のコマンドを打つと確認できますので、目視で確認してください。

cd ~
ls -la

もし、.bash_profileがなかった場合は、次のコマンドを打って.bash_profileを作成します。勝手に作っても問題はありません。

touch .bash_profile

完了したら、作成できたかどうかを確認します。

ls -la
環境変数を通す

vimを起動して、下記のコードを.bash_profileに書き込みます。

export PATH="$HOME/.pyenv/shims:$PATH"

vim:wqコマンドで保存します。そして、忘れてはならないのですが、.bash_profileに設定した内容を即刻反映させないと、あとの作業で「あれ?環境変数が切り替わってないぞ?」となってしまうので、下記コマンドを打って変更内容を反映させましょう。

source ~/.bash_profile

最後に、下記コマンドを打って正しく設定されたかどうかの確認作業をします。

which python

ここに、pyenvのパスが表示されていれば正常に設定完了です。

インストール可能なPythonの確認と、インストー

インストール可能なPythonのバージョンは下記コマンドを使用して確認。

pyenv install -l

次に、欲しいPythonのバージョンを決めてインストール(今回は3.5.0が欲しかったので、3.5.0をインストールします。他のバージョンでも同様です。)

pyenv install 3.5.0

このコマンドを打つとインストールが始まりますので、しばらく待ちましょう。通常終了した場合は、次のコマンドを打って、使いたいPythonのバージョンを指定します。

pyenv global 3.5.0

あるいは

pyenv local 3.5.0

globalを指定すると全体に適用でき、localを指定すると特定のディレクトリに対して指定できます。

(2017-07-10追記) 反映がうまくいっていなさそうな場合、pyenv rehashを打つとバージョンの変更が反映されます。

設定方法は以上です。