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気まぐれに書評とか。

ペットを捕まえようとすると逃げるところから、「心」を考える! ―ダニエル・デネット『心はどこにあるのか』

完全に消化不良ですが、一応読んだってことで書評を書きます。完全に消化不良につき、勘違いしている箇所もあるかもしれませんがご容赦ください。哲学書はつねに「んんん?」からはじまり、「んんん?」で終わるのが常ですね。デネットも本書の最後で、「本書は多くの疑問からはじまり、哲学書のつねとして、答えのないまま終わる」と言っているので、このモヤモヤした感じは正しいみたいです(笑)。

とりあえずメモしておきたいことがひとつだけあるのでメモ。

「志向的な構え」によって心を探究する

いきなり謎用語を出しましたが、デネットの本や論文を読むと結構登場する用語です。あらためて。

志向的な構えとは、(人間、動物、人工物を問わず)ある対象の行動について、その実体を、「信念」や「欲求」を考慮して、主体的に「活動」を「選択」する合理的な活動体と見なして解釈するという方策である。

志向的な構えの基本的な手順は、対象を主体と見なすことによって、その行為や動作を予測し、そのような予測を利用して、行為や動作をある意味において説明するというものである。

志向的な構えの要点は、行為の対象を理解するためにそれを主体としてとらえることである。さて、もしそうだとすれば、それは「賢い」主体のはずである。愚かな主体は愚かなことしかしないからだ。そこで、主体は(その観点がかぎられている以上は)もっとも件名と思われる動きしか取らないと大胆に飛躍して想定することができるだろう。そこで、限定された観点を記述するために、わたしたちは、主体が、なにを知覚しどのような目標と欲求をもつかということを基礎として、特定の信念や欲求を持つと考える。

どういうことかをデネットはあんまり詳しく述べてくれてはいないので、一体どういうことかを正確に捉えるのは結構難しいかもしれませんが、ひとつ考えてみることにします。

たとえば、自宅のペットを病院に連れて行くために捕まえる必要があるとします。そのとき、ペットは飼い主に「捕まってなるものか」という信念を持って「逃げよう」とするものとします。そうしたとき、人間は「きっとペットは捕まってなるものかという目標をもって動くだろう、だから、こういう感じで追い詰めて・・・」ということを反射的にしていると思います。それが志向的構えなのかな?と思います。

一方で、この志向的構えによって捉えられないものはすべて、心を持たないということになります。たしかにそうかもしれません。若干荒削りな理論な気もしますが、結構有効なんじゃないでしょうか。

そして、この話に従うと、アルファ碁などのコンピュータシステムも心を持ちうる、ということになると思います。というのも、アルファ碁は、「相手に勝ちたい」という信念を持って、最善手で相手を倒すという合理的な行動を取る存在だからです。これは志向的な構えのいう、「主体」そのものです。そして、その主体には当然心が宿っている可能性があります。

んんん、でも、心ってそんな単純に定義できるの?というと正直難しいと思います。たしかに志向的な構えを使ってコンピュータを捉えると「心があるらしい」というところまでは言えると思いますが、人間や動物の持つ心と同じなの?と言われると、微妙に違うんじゃないかな、と思うんですよね。

デネットが別の著作(『思考の技法』)で語っていた概念があります。「準・○○する」という概念です。コンピュータができるのは結局「準・○○すること」が限界だと思います。アルファ碁も結局「準・判断する」「準・理解する」というところまでは行っていますが、人間と同じ「判断すること」「理解すること」を行っているかというとそうではないです。アルファ碁を始めとするコンピュータを構築するアルゴリズムは結局、処理手順に過ぎないからです。そこから「準」の修飾子が取り払われるにはまた別の要素が必要になるのではないでしょうか。

疑問とモヤモヤが残りましたし、デネットは毎回話が長くて(笑)、本書のすべてを理解しきれたとは思いませんでした。でも、一応思ったことをメモしておくということで。

心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)

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心の社会

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