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気まぐれに書評とか。

『純粋理性批判』ノート

*「感性」と「感覚」の違い。これを世の哲学者はどう考えているんだろうか。読む限りでは、感性→感覚の順に対象が流れ込んでいくように思えるんだけど、でもカントの書きぶりだと、感性と感覚は実は同時刻に通過するもので、しかもお互いに重なりあう箇所があるとも読める。解説書か何かで、図になったものがあると嬉しい。

*「感性」と「感覚」のあたりを読んで思ったんだが、哲学の弱点は自然言語を使ってしまっていること。結局、意味が一意に定まらない。絵にするか、数式でかきあげるかどちらかにしてほしい。でも昔の基準だと論文に絵はご法度だったのかも?よくわからないけど、なぜ哲学者は絵を使いたがらないのか不明。数式でかきあげるっていうのは相当に難しい。一番の理想は、これから出てくる概念を記号にして、それを巻頭に書いておいて、あとは記号にしたがって議論をすすめる、みたいな感じか?あるいは挿絵をはさむか。

*空間がアプリオリであることは納得がいった。カントの説明では、あるものを仮になくしてみたとして、それでもそのものが存在していた空間は残るよね、だから空間はアプリオリなんだよ、みたいな感じだったかと。たしかにその通りだ。

*しかし一方で、時間がアプリオリであるというのはイマイチ納得がいかない。カント自身も、時間のアプリオリについては口を濁しているように思う・・・。空間の議論はどの動物も同じように認識できると思うんだけど、時間については、人間以外の動物が「過去(時間が経つ)」という概念を持ち合わせているかとそうは思えないんだよね(犬は過去を感じない、というくらいだし)。だから、時間は人間がその経験の中で生み出してきた概念なのではないだろうか、という疑念が払えない。

*あと、時間概念を持ち出すとやはり「〈存在する〉とはどういうことか」が絡んできてしまう。僕の考えでは、時間と存在とは切り離しようがないものだからだ。この辺はハイデガーやっぱ目のつけどころすげーってなるけど、ハイデガーも上の「〈存在する〉とはどういうことか」について、何も結論を出していなかったりする。

*先験的論理学あたりで展開されるカテゴリー論については、やはり多くの学者がいうとおり少し無理がある。というか、このカテゴリーに分類されたそれぞれの項目が果たしてひとつひとつ本当にアプリオリなのか?という議論をする必要があるような。僕は「関係」とかは怪しいと思っていて、たとえばビッグバン以前の宇宙に「関係」は存在しうるのか?って話が置き去りにされている。

*そして、やっと今回『純粋理性批判』を読む動機となった「統覚」が登場した。統覚は悟性の上位概念、みたいな感じ?現象学で出てきてなんだこれはと思って調べたら純粋理性批判が発端とのことで。はやく続きを読みたい。

以下、余談

*あと、悟性(Verstand)の訳は「知性」でいいんじゃないかなという気がしないでもない。

*『純粋理性批判』を本格的に読みたいのであれば、ヒュームの『人性論』は必読書。ヒュームも基本的にはカントと似た議論を展開して、認識について分析を加えている(「印象」とか)。あと、デカルトは一応読んでおいたほうがいいかと思う。今回僕は、現象学を軽く学んで、その中でフッサールがカントにとても影響を受けていそうだという直観から『純粋理性批判』を読むことにしたからわりとスラスラ頭に入ってくるんだが、普通に哲学史通りこの本を読むとしたら、相当骨が折れると思う。なぜなら、新しい(ように思える)概念がわんさか登場するからだ。もっとも、ヒュームさえ読んでいれば、既知の話をより小難しくした、みたいな程度の印象で済むのだけど。

*超厳密にこの本を読むと、一生かかっても何もわからない、みたいなことになりそうなので、細かい議論の筋道はおいておいて、「概念の理解」と「ストーリー」を理解することに終始する方向で。

純粋理性批判

純粋理性批判