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気まぐれに書評とか。

経済学は「正しさ」を教えてくれるだろうか

最近気になっているテーマだが、考えがまとまっているわけでもないのでつらつら書いてみようかと思う。

経済学は、たしかに世の中で起こる現象の説明を定量的に加えている学問として、それなりの成功をおさめているといえる。たとえば、有名な需要曲線や供給曲線の話は、論理的には整合性があるので一応は市民権を得ているようである。前にネットで、「需要供給曲線と均衡は社会的には一度も証明されたことがない」という論考を目にしたことはある。そういう批判はたしかにありえるわけだが、それならば最近の物理学も、目には見えないけれど論理的には整合性のあるものを論じている点では同じようなもので、こういう批判は少し建設的とは言いがたいと私は思った。そういう批判もあることを考慮しても、複雑な世の中を、現実を損なわない程度に単純化して説明できる経済学は、誕生以来成功をおさめているといえる。

経済学は、世の中で起こったことをわかりやすく整理して説明できる学問だと思う。もちろんすべてというわけではない。世の中で起こることは、ひとつのことが原因となって起こるわけではない。いくつもの原因が、時に重なりあい、時に相殺し合いながら混在している。それらがからみ合って、ひとつの現象が世の中で起こる。

経済学はまた、これから起こりそうなことについて「ではこうすればよいのではないか」という提案もできる。もちろん、提案であって正解ではない。最近はすこしばかり世の中が複雑になってきて、なかなか提案を生み出すこと自体が難しくなりつつあると思う。それでも、たとえばアベノミクスは経済学を比較的強く参考にした政策であろう。結果としてアベノミクスという経済学の仮説は、株価を引き上げるという面においては、一定程度の成功をおさめたといってもよいかと思う。

だが、アベノミクスが論じられる際もそうであったが、経済学は「正しさ」の観点を少し無視することがあると感じられる。金融市場を盛り上げて、貨幣をジャブジャブな状態にすることは、果たして「正しい」といえるのだろうか。公共投資をバンバン行うことは、環境破壊につながるという面ももちうるわけだが、それは「正しい」のだろうか。ブラック企業問題にしても、経営者側から見れば、会社をつぶしてまで労働者を擁護する義務はないわけだが、それは「正しい」のだろうか。「正しさ」というのは、難しい感覚である。私も現在考え中で、いまだに定義づけができていない概念だけれど、なんとなく感覚的にはわかっていただけるのではないかと思う。英語でいうところの、justiceということばだ。

「正しさ」というのは、「いい」とか「悪い」という次元の概念ではない。ひとつの経済政策が「いい」とか「悪い」というのは、要するにそれが「必要」か「必要でない」かの話ではないだろうか。私はそう考える。しかし「正しさ」は、そこからはまた少し、座標軸を異にする概念である。たしかに、経済学ではたとえば企業が利潤を最大化することが「いいこと」として語られる。しかし、それは「正しい」と言い切れるのだろうか。利潤を最大化することを(それは、「いいこと」なのだから)第一目標とし、その過程で環境を破壊し、労働者を痛めつけ、消費者を欺く。この姿勢は「正しい」といえるのだろうか。

時代は移り変わる。だから、経済学もそろそろ現代版にアップデートされるべきときが来ると感じている。