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気まぐれに書評とか。

【書評】『メノン』

「だがぼくは、教えられるか教えられないかを知っているどころか、徳それ自体がそもそも何であるかということさえ、知らないのだよ。」という、衝撃的な一文が始まりを告げる一冊。まだ読んでいないのだが、おそらく、同じくプラトンが著した『プロタゴラス』ともつながってくるのだろう。

本書は哲学の授業中に「数学の本」として紹介されていたが、とんでもない。これはどちらかというと倫理学の本に近いと私は思う。だが、倫理学の本と呼ぶには少し結論部分が物足りない感じがする。「徳とはなにか」ということについては、結局はこの本は教えてはくれなかった。

哲学の教授が「数学の本」と紹介してしまったのは、おそらく「徳」について考える際、ソクラテスは幾何学を用いてそれを説明しようとしているからだろう。たしかに、ソクラテスとメノンの召使との会話のなかで、平面図形が文中には登場してくるが、それは部分であって全体ではなかった。

私が倫理学の本だろうと認識するのには理由がある。ひとつは、大学の倫理学の授業で教科書として使用されていたからであり、もうひとつは、「徳とはなにか」を逆に読者に問いかけているような気がしてならないからだ。

しかし、「徳とはなにか」という問には、本書は答えてくれない。「徳は教えられるものではない」という点については重々教えてくれるのだけれど。「結論部分が少し物足りない」と書いたのは、そういう理由からである。

いまの人であるとむかしの人であるとを問わず、いったいすぐれた人物たちは、自分が卓越していた点であるところのその当の徳性を、他人にも授けるすべを知っていたのだろうか、それとも、もともとこの徳というのもは、人間が他に授けられることもできないものなのだろうか。

さらに厄介なことに、本書は徳が授けられるのは神の恵みによってである、と最終部分において結論してしまっている。こうなると、もはやそれは人間の認識をこえたものと判断することもできる。だから、徳については探求すべきではないのかもしれないし、したり顔でわかってもいないのに語るべきでもないといいたいのだろう。

ところで本書を読む時に感じられたのは、おそらくこれはソフィスト批判のために書かれた本ではないかということである。歴史的背景を照らしあわせて考えてみるとますますそう思えてくる。ソクラテスは、「万物の尺度は人間である」と主張するソフィストを批判しつつ登場した。ソフィストたちの傲慢な姿勢(「何かたずねられたときに、いかにも識者らしく、おめず臆せず堂々と答えるという習慣だ。」p.10 70-C)を完膚なきまでに批判するために、あえて「徳は教えられないものである」という結論を導いているのではないだろうか。

そう考えると、この物足りない結論にもそれなりに昔は意義があったのだろう。現代を生きる我々としては、少し物足りなく感じてしまうけれど、「徳とはなにか」を改めて考える機会を与えられた点で、本書はもう十分役割を果たしてくれたのではないだろうか。

その他、ソクラテスの鮮やかな「無知の知」に関する論証も圧巻である。ソクラテスの弁明にもおなじような部分があるけれど、「弁明」よりはメノンの論証の方が数倍わかりやすかった。これからも使っていこうと思った。