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気まぐれに書評とか。

自分自身の不完全さに向き合ってきたエッセイ―村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

またひとつ、村上春樹のエッセイを読んでしまいました。『走ることについて語るときに僕の語ること』。正直ランニングやジョギングにはあまり興味はないですが、小説家とランナーという2つの顔について、村上春樹自身がどう考えているかにはとても興味があったので、読んでみました。あと、結構いろんなところでおすすめされている本だった、というのもあります。

『職業としての小説家』と『走ることについて〜』

まず思いつく感想としては、『職業としての小説家』に書いてあったことがたくさん書いてあるなあ、ということです。以前『職業としての小説家』は気になって読んでいて、そこから村上春樹の自分語り、好きだなあという感覚をもっていました。そして、『職業としての〜』で書かれていたことが、たくさん『走ることについて〜』に書いてありました。

ここから考えられることは、村上春樹の人生哲学は、10年間であまり変わっていないのでは?ということです。10年前に出版した『走ることについて〜』と、その出版の10年後の『職業としての〜』の中身にそれほど大差がない。淡々と生きているのかな、という印象をもちます。そして淡々と生きられる人生というのは、それはそれで幸福な人生なのではないかと思います。

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

なかには「いや、ジェットコースターのような人生のほうが楽しいに決まっている」という人もいるかもしれません。人生の楽しさ、というのはその人にとっての幸福の一要素だと思います。そして、それは簡単には決められないものです。でも、私はどちらかというと村上春樹型の淡々とした人生のほうが好きかなと思います。浮き沈みが激しいのは疲れるので。

ランナーと小説家をどう考えているか

ランナーと小説家という2つの顔について、自身がどのようなことを考えているのか、という疑問についてなのですが、正直なところいろいろ書かれすぎててよくわからないです。ただ、読んでいてこう考えているのかなあという漠然とした答えは得られました。

ひとつは、小説を書くという作業において、ランナーという顔は大きな貢献を果たしている、ということです。小説を書く際に、ランニングに対する姿勢が役に立った、という話を実際に本書の中でしています。したがって、ランニングはすくなからず、村上春樹の小説を書く姿勢に影響を与えているようです。

一方で、小説家という顔とランナーという顔の2つの関係性については、それほど深く考えていないのでは?とも思いました。小説に役に立てるためにランニングをしている、という感はなく、どちらかというと小説を書く上での目標とランニングをする上での目標はぜんぜん違った方向を向いている、という感がします。

自分がもし二足のわらじを履くことになったとき、お互いがお互いの役に立たないことに悩む必要はないかもなあと思いました。つまるところ、2つの顔があるなら、それぞれに対する目標を立てて2つの方向に向かって邁進すればよい、ということなのでしょう。

自身の才能がないとき、どうすればいい?

本書の中で村上春樹が、小説家に必要なものを上げていて、そこらへんの章が印象によく残ったのでメモしておきます。

小説家に必要なものは2つあると村上春樹は考えています。1つは文学的才能。もう1つは、集中力だといいます。そして、前者はもはや持ち主にはコントールできないからどうしようもないけれど、後者は訓練で後天的に獲得可能です。そして、その後者をランニングによって鍛えることができた、とも語っています。

才能のない大半の人は、才能については関係のないものと考えるのがベストプラクティス。そして、才能に恵まれない場合、後者をしっかり鍛えることで量でカバーするしかない、というのが正直なところ。と、本書の中で語られています。

私も、自分自身の才能のなさに多々悩むことがあります。が、才能に恵まれないのであればとにかく継続する集中力をもって、1日3時間でも4時間でもいいから、コツコツやるしかないんだと村上春樹が語っていて、なんとなく「ああ、そうなんだ」という気分になりました。

巨人ならざる世間の大半の作家たち(僕ももちろんそのうちの一人だ)は多かれ少なかれ、才能の絶対量の不足分を、それぞれに工夫し努力し、いろんな側面から補強していかなくてはならない。そうしないことには、少しなりとも価値のある小説を、長い期間にわたって書き続けることは不可能になってしまう。そしてどのような方法で、どのような方向から自らを補強していくかということが、それぞれの作家の個性となり、持ち味となる。

「才能に恵まれない」といった、自分自身の不完全さを受け入れるというのは思った以上に難しいことです。そして、だれもが自分自身の不完全さに我慢できない時期があったと思います。が、この一節を読んで、むしろ不完全だからこそ補強の余地が残されているのだということに気づければ、大きく前に進むことができるのではないでしょうか。

村上春樹自身にもやはりそういう時期があったようです。本書の後半の方で、16歳のときに裸になって自分の体の嫌いなところをリストアップしてみた、なんていうエピソードが載っています。おもしろいことするな、で言えばそこまでなのですが、村上春樹自身も、自分自身の不完全さが嫌になる時期があったということを示唆していると思いました。結局きりないじゃん!と思ってやめたそうですが。

そして、本書のなかで語られるランニング中のエピソードは、自分自身の不完全さと歳をとっても向き合い続ける必要があるのだということを示唆しているなあと思いました。

走ることについて語るとき彼の口から語られることの多くは、ランニング中や大会等で出会った「障害」「自分自身の不完全さ」の記憶です。そして、それに対して何を考え、どう行動したかを書き連ねています。走ることについて語るときに彼の語ることは、そうした「不完全さ」はつねに自分につきまとい、それは避けられないということ、そしてそのために「不完全なしかた」で対処し続けなければならないのだ、ということなのではないでしょうか。

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)