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気まぐれに書評とか。

ウィスキー飲みたくなってきた―村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』

村上春樹の小説はほとんど読んだことがないのですが、エッセイは好きで読んでいる気がします。『職業としての小説家』を読んでから、村上春樹がエッセイを書く時期・短編小説を書く時期・長編小説を書く時期という波をもった作家だと知り、そこからエッセイに興味をもったのがきっかけです。

『ポートレイト・イン・ジャズ』は、ジャズを聴きたくさせるエッセイでした。今回読んだ『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を読んで、今度はウィスキーを飲みに行きたくなってきました。いや、これから冷蔵庫にあるウィスキーを飲みます。

私がウィスキーを飲むようになったのは、バイト先のマネージャーの影響が大きいです。彼に薦められて、バイトの終わりなどにいろいろ試し飲みするうちに、ウィスキーに興味をもつようになりました。そこから、自分自身でウィスキーを買って飲むようになりました。

でも、ウィスキーの味はべつに毎日飲みたくなるほど好きなわけではありません。飲んでいるうちに、人並みに気持ち悪くなってきてやめます。では、ウィスキーをそこまでおいしいと感じていないのになぜ飲むのか?私は、ウィスキーにまつわるストーリーなどを味わいながら飲んでいるのではないかなと、自分自身を振り返って思います。飲んでいる間は、「ウィスキーを飲んでいる自分」に酔うことができます。こう書くとナルシズムっぽいですが。

一方で、村上春樹もこうしたウィスキーの〈記号消費〉をしていないとは言いきれないとエッセイを読みながら思いました。村上春樹がウィスキーの味を表現するとき、そのウィスキーの背景などを交えながら記述していたからです。彼も私と(そして多くのウィスキー飲みと同様に)、ウィスキーのバックグラウンドをたのしみながら飲んでいる人のひとりではないでしょうか。

魅力を「ことば」で伝えなければならない苦悩

さて、この本のタイトル『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』についてですが、その裏の意味がじつはあります。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。

村上春樹は、本書を書く際に、ウィスキーの味を表現することにとても苦労したように見受けられます。いつも読むエッセイとは違って、今回は「あ、苦労して書いたんだなあ」というのがまるわかりな気がします。ウィスキーの味ですから、当然それを正確に伝えることは不可能でしょう。ことばを尽くしても、伝わりきらないディティールがどうしても出てきてしまうことには致し方のない面もあります。

が、それ以上に、ウィスキーの味というのはそれほどまでに複雑で奥行きの深いものだ、ということを示唆しているのではないでしょうか。一流のことばの使い手である村上春樹がこれだけ苦心して、最後の最後で「僕らのことばがウィスキーであったらなあ…」とぼやいてしまうくらいに、それくらいウィスキーというのは深いのだなあと思いました。

さて、ウィスキーを飲みに行きましょう。ちなみに、本書に出てくるアードベッグタラモア・デューブッシュミルズは好きでよく飲みます。あと村上さん、バーボンは好きじゃないのかな?バーボンの話はいっさい出てきていませんでしたね…

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)