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気まぐれに書評とか。

スピノザ―ジル・ドゥルーズ『スピノザ』

ジル・ドゥルーズスピノザ』を読みました(やっと)。この本はガタリと共著した『千のプラトー』が出た翌年に出版されたもので、ドゥルーズのどちらかというと中〜後半の思想を代表している本のひとつだといえます。

ドゥルーズは、他にも『スピノザと表現の問題』という本を書いています。こちらはどちらかというと専門家向けの一冊に仕上がっていますが、『スピノザ』は一般の、これからスピノザを始める人向けかなあという印象を持ちます。それくらい、わかりやすくて読みやすいです。

ちなみに『スピノザと表現の問題』は今読んでいる最中ですが、なかなか止まってます(笑)。

スピノザの思想について

スピノザ自身の思想について少し復習をしておきましょう。スピノザの思想は端的に言って、デカルトの思想を知らないと理解できません。そしてざっくりスピノザを捉えるには、デカルト「でない」方向に向かった、と考えるとひとまずは読みやすいかと思います(デカルトの思想の紹介をすると文字数が大変なことになるので端折ります)。

スピノザの思想ははっきり言って難しいです。私がスピノザを読んでいてよくわからないのが、スピノザが文中でしきりに「神」と書くものが、果たしてキリスト教的な意味での「神」なのか、それとも神即自然という意味での「自然」一般を指すものなのか、はたまたプラトンが想定した「イデア」みたいなものなのか、イマイチつかめないからです。そして、スピノザ本人も『エチカ』の中で、神がどういうものなのかを具体的に書いてくれてはいないからです。

しかし、もしかするとこの疑問は野暮なものなのかもしれません。当時、哲学は神抜きでは考えられませんでした。ここでいう神とは、キリスト教の教義にある神です。聖書で言うところの主です。スピノザが正統派キリスト教が嫌いだったとかそういう話はおいておいて、ひとまず当時の人々が何かしらの形で信仰していた「神」のことを指していて、そしてあまりにそれが当たり前すぎたから、あえて書いていないのかと思います。

そして、創世記(1-1〜1-29くらい?)などを読むとわかるように、神が結局自然(というかこの世)をお作りになったのです。つまり、神=自然なのです。なぜなら、神が諸原因の根源であり、その原因から生じた結果である「自然」はすべて神という属性を帯びるからです。この考えを受け入れると、スピノザの思想が少し視界の開けたものになるかもしれません。

ところで、このように神とその他のものという従来の序列関係から、神とその他のものが同様の優先度である(逆に言うと、この2つの間に序列関係はない)というスタンスを取ると何が起きるか、が重要です。スピノザの思想の画期的なところはここにあります。

哲学史において偉大な思想家であると言われる人たちは、かならずこの解体作業を行っています。スピノザデカルトの思想内の各所に見られるこの序列関係をいったん解体してみました。すると、まったくデカルトとは異なった世界観が誕生しました。

もっとも重要なのは、道徳的な意味での善悪の解体でしょう。神=自然法則な世界において、道徳的な意味での善悪という概念は残らないからです。物事の正しさを決める尺度を判定する裁判官が世の中から消えてしまうからです。そこには、ある存在が「ただ在る」状態だけが残ります。

かくて、〈エチカ〉〔生態の倫理〕が、〈モラル〉〔道徳〕にとって代わる

よく人は、「・・・するべきだ」という考えのもとに物事を判断しようとしてしまいます。自分が他者の裁判官になっているのです。だから、世の中には諍いが耐えないし、イライラが止まらなくなるのです。しかし、その諍いやイライラの原因が道徳的な善悪から生じており、その根拠がまったくどこにもないことを認識すれば、他者のことを受け入れることができるようになります。そうして肯定的に物事を捉えることで、他者と自分の差異を冷静に受け止められるようになります。

これが、ドゥルーズ自身の差異の哲学ととてもマッチしたようで、ドゥルーズはその点でスピノザに肯定的な評価を下しています。

ドゥルーズ自身の考えるスピノザについて

ドゥルーズ自身がスピノザをどう評価しているかについては、むしろ『スピノザと表現の問題』の方が詳しく書いてあります。ドゥルーズスピノザの哲学を「純粋肯定の哲学」と評しています。

「肯定の哲学」という言葉をドゥルーズの観点から読むなら、それは「生きる力の肯定」ということになるでしょう。では、生きる力の肯定とは何か?これは結構漠然とした難しい問いですが、私は「反応すること」にあるのではないかと思います。そして、「反応する」ためには、あらゆる物事に「気づく」必要があって、その気づきを得るためには、周りの存在を肯定する必要があるのではないか、そう思います。

というのもの、人は肯定されたものしか認識できないからです。肯定とはそれを必要なものであると見なすことです。私たちはそこまで記憶力がいいわけでも、エネルギー効率がいいわけでもありません。したがって、不必要なものは無視してしまう癖があります。肯定する幅が小さくなると何が起きるか。答えは明白で、視野が狭くなります。

視野が広いほうが、よりリアクションを起こしやすくなります。関心事を広げようということです。それがそのまま、他者の存在を肯定することにつながります。他者への何かしらのリアクションを起こすことが、他者の存在の肯定にそのままつながります。こうして、より人の生きる領域が広がって行き、結果としてより〈いい〉状態に向かっていくことでしょう。

今回読んでみて、スピノザの「力能」という言葉の理解が甘いなという結論に至りました。ドゥルーズは当然、ニーチェとの関係性の中でスピノザの「力能」を捉えています。なので、今度はニーチェも少し掘り下げて読んでみようかと思いました。

スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))

スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))

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