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気まぐれに書評とか。

私たちに「意識」はないのかもしれない?―デイヴィッド・イーグルマン『あなたの知らない脳―意識は傍観者である』

最近はずっと心の哲学を勉強していました。仕事で使うというわけではないのですが、機械学習について最近は勉強をしていて、ふと「人工知能っていったい哲学的にどう考えられるんだろう?」と疑問に思ったのがきっかけでした。それで、心の哲学の本を読んでみたんですが、どうも思考実験的な色が強くて納得がいかなかった。そこで、ちょっと脳科学の本を読んでみることにしました。

何かが自分の中心にいるかもしれない―これが「意識」なる存在を想定するような発想に至ります。多くの人は、「意識を失った」なんていうくらいですから、自分のなかに一つの核となる「意識」(自我ともいう?)を持っていると考えていると思います。しかし、イーグルマンはそれについてNOというわけです。

なぜそういえるかというと、私たちは、日常生活のほとんどを実は「意識しないこと」=「無意識」に頼って過ごしているからです。私たちはキーボードを、自分の指が次どう動くかをまったく意識することなく打つことができます。また、自分の視覚に入ったほとんどのものを「見る」ことはなく、ある一点に集中して「見る」ということしかできません(これが交通事故などの悲劇を生みます)。

そしてなんと、私たちはその「無意識」に対するアクセス権ももっていないようです。つまり、自分が無意識に何かをやっている、ということはわかるけれど、肝心の「無意識」が何か?についてはよくわからないということ!な、なんだってー!?しかも、その無意識が悪さをいろいろしてくれるから、錯覚とかが生まれてしまうのだといいます。無意識、案外めんどくさい奴ですね・・・。

結局のところ、私たちは「外に」あるものをほとんど自覚していない。脳が時間と資源を節約する憶測を立てて、必要な場合にだけ世界を見るようにしている。

人の行動は説明不可能だから法律でも裁けない(かもしれない)

私たちの行動の大半は「なぜそうしたかわからない」によって成り立っています。と考えたときに困ってくるのが、「もし犯罪を犯してしまったらどうするか?」ということです。その人が故意にやったかどうかは正直口頭ベースで判断することが多いですし、この世界観に立つとそもそも人が「故意に何かをする」という確率がとても低い、ということになってしまう。こうなってくると、法律や倫理観の正当性が担保されなくなってきてしまいます。

法律や倫理は、人間の自由意志というものを最大限に尊重しています。人は何かをする自由を有しているし、またその意思ももっている。その過程のもとで、じゃあこれは最低限許せるけど、ここから先は許せないよね、社会バランスを崩しちゃうよねという絶妙な線引を行っています。

しかし、私たちの行動の大半が「なぜそうしたかわからない」=「無意識」によって成り立っているとしたらどうでしょうか。自由意志があるといえるのは、結局その人が「なぜそうしたか」説明できるから成り立つのです。しかし、それができないとなると、自由意志という概念の有効性がそもそも怪しくなってきます。ということは当然、法律や倫理の正当性も怪しくなってくると言えるのではないでしょうか?

と思ったところで本書を読み直してみたのですが、本の中では「自由意志の問題と、その答えは重要ではない」的な節があります。ということは、自由意思の問題はあまり考えなくてもいいらしいです。というか、筆者自身、「法律はすでにすべての脳が平等につくられているのではないことを認めている」と言っています。「問題は、現行の法律がおおざっぱな区分を利用していることだ」と筆者はむしろ言います。もっと個別事案に丁寧に対応すべきだ、というのが筆者の主張です。

なるほど、たしかにそう言われるとそうしなきゃいけないのかなっていう気持ちになってきますが、でも現実的に裁判の手間を考えるとこの手の話は結構難しいと思います。1回の裁判で下手をしたら数年かかるのに、数年間裁判官が一人の個別事案のために頭をウンウン悩ませる姿を想像することは難しいです。

もちろん筆者は実運用性について論じたいわけではなく、もっとも重要なのはその人をどうしたら修正可能だろうか?という観点に基づいて法律を制定することだと言っています。要するに今の法律は、「君、これをしたよね。はいダメ。刑罰はこれ」みたいな感じで裁こうとしますが、そうではなくて、「君、これをしちゃったけど、君の脳を調べたらこうこうこういう特徴があって、だからこういうリハビリが必要だよね」という観点から「処置」を下すことをしようと筆者は言います。これ、いいかもしれない。

意識ってそもそもあるの?という話を考えていたら、いつの間にか倫理の話に・・・

トロッコ問題の話とか出て来るあたり、大学の専攻が政治哲学だった私としてはこの手の話を論じずにはいられません。カントの義務論が・・・と口走りそうになりますが、筆者はNOといいます。神経科学の観点から見ろ、と。新しい視点を手に入れられたかなと思います。

ちなみに私自身は意識をどう捉えているかというと、現象学の純粋意識みたいなものと、ドゥルーズリゾームあたりを組み合わせ、コネクトームの話をゴニョゴニョ織り交ぜたような感じで考えています。ようするに自分の中心みたいなものは存在するけれど、それはニューロンの組み合わせでしか存在しておらず、自分の核みたいなものはない、という立場です。この立場を取る人がいるのかどうかは知りませんが、今この考え方が一番納得行くかな・・・なんて思っています。

機械学習のお勉強を進めていくうちに考え方が変わっているかもしれませんが。

あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

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