読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

multiplus

気まぐれに書評とか。

考えるな、感じろ――『反解釈』

少しお固めの本をいきましょう。最近Twitterでおもしろいツイートが流れてきて、そういえばこの話、ソンタグが昔似たようなことを言っていた気がすると思い出して、改めてこの評論を読み直してみました。『反解釈』です。

いや、改めてツイートを読み返して思ったけれど、やはり違うかもしれない。でも、読み返したしせっかくなので書評しておきます。

反解釈の大まかな流れとしては、「作品の意図を考えるな、感じろ」というものです。ソンタグは、古代ギリシャ以降、ヨーロッパには芸術作品の「形式」よりも「内容」を重視する傾向が生まれてしまったといいます。昔はただ単に像などを作っていたけれど、徐々に「この像にはこういう意味があって、この部分はこういう意図で作っていて…」ということを重視し始めてしまった、ということです。たしかにそのような傾向は認められますよね。

ヨーロッパ人の芸術意識や芸術論はすべて、ギリシアの模倣説あるいは描写説によって囲われた土俵のなかにとどまってきた。この説によれば、必然的に、芸術というもの自体が――個々の作品をこえて――疑わしいもの、弁護と必要とするなにものかにならざるをえない。この弁護の結果、奇妙な見解が生じてくる。すなわち、あるものを「形式」と呼びならわし、またあるものを「内容」と呼びならわして、前者を後者から分離するのだ。そして、いとも善意にみちた動機にしたがって、内容こそ本質的、形式はつけたしであると見なすという次第だ。

こうして、芸術(いや、あるいはその他のさまざまなものを)「解釈する」という試みが始まってしまうことになります。ソンタグのいう解釈とは、「自覚的に精神を作用させて、ある一定の解釈の法則、ルールを例証すること」を意味しています。要するに、自分の思考のフレームにはめ込んで作品を解釈してやろうという試み、といったところでしょうか。

解釈は絶対的な価値をもったものではありませんが、しかし「思考の枠にはめる」行為である以上、「別の似た何か」を追い求める作業にほかなりません。芸術作品に解釈を当てはめるとはそういうことです。つまり、芸術作品を自分たちの実体や生活と紐付けて、なんとか自分たちに関連付けようとする作業、ということです。しかしこれは、芸術作品本来の姿でしょうか。私はそうは思いません。

なぜなら、芸術作品というのはやはり、人間が考えつかないようなことを生み出す作物であってほしいからです。というか、作者たちはおそらくそのつもりで作っているでしょう。しかし、周囲の人間が「解釈」という行為を行ってしまうことで、新奇性が一切なくなり、その芸術作品はのっぺらぼうな姿へと変貌してしまう。これが昨今の芸術作品の批評の問題点だ、とソンタグは言います。私もそうだと思います。

当然、芸術作品を作る作者たちもそのことに気づき、そうして芸術作品はどんどん抽象化を遂げていきました。いい例が現代アートでしょう。現代アートを見ていると、ときどき見るものの思考を停止させてしまうような抽象度を持ったものが現れます――「これはなんだ」と見るものに思わせるような作品たちです。しかしそれこそが、作者の狙いなのでしょう。

同じことが、じつは現代思想にも言えるのではないか、と個人的には思います。ポストモダンの類のものですが、それらの思想を担った書物は往々にして抽象度が高く、いかようにも解釈でき、また一意に意味の定まらない文体で書かれています。これは、それを書いた著者が解釈を嫌ったからにほかならないのではないでしょうか。「俺の考えは、そう簡単に言葉で表せるものではない。ああでもないこうでもない…」という感じ。これが、ポストモダン思想には流れているように思います。

人生論として読んでみるのもありかもしれない

人間は、「意図」「目標」などを定めようとしすぎてしまっているのかもしれません。いい例が「生きる意味」でしょう。そもそもこの世の中に生きる意味は一つなのか?そうではないでしょう。であれば、ソンタグの言うとおり、「もっと感じろ」というのが正解になりそうです。もっと、人生を素直に楽しむようにしたら、きっと「生きる意味」なんてものは考えなくなるかもしれません。

ソンタグのこの批評は、仕事の現場などで生きづらさを感じている人たちへのエールになるかもしれません。その仕事に確かに意味はないし目標もないかもしれない。でも、純粋に没頭して楽しむことは、その人の心持次第でどうにでもなる。それこそが、今の時代に求められている芸術作品あるいは人生の「愉しみ方」なのかもしれません。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

広告を非表示にする