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気まぐれに書評とか。

『ニーチェ』ジル・ドゥルーズ

ドゥルーズはこの本の中で、ニーチェの言葉を借りてではあるが、次のようなことを述べている。哲学は、否定の歴史だったと。「○○をしなさい」ではなくて、「○○のような生き方をしてはならない」という思想が、ソクラテス以降の思想には根付いてしまっていた。

従って必然的に哲学は、その歴史において、退化しながら、自分自身に敵対しながら、そのマスクと混同されながらしか発展しなかった。能動的な生と肯定的な思想との統一の代わりに、思想は生を裁くこと、いわゆるより高い価値を生に対立させること、それらの価値に応じて生を測定し、限界づけ、生を断罪することを、自らの任務として定めるのである。 例にあげるとしたら、「理性」と「情念」の対立関係がそうだろう。これは多くの中世〜近代の思想家が論じてきた話である。できる限り情念の方を抑え、理性に従って生きよ。これが、近代哲学の根幹をなしていたといってもさし支えはない。

だが、ドゥルーズニーチェはこの歴史について疑問を投げかけるのだ。情念あるいや感情は、生きる以上欠かせない要素のうちのひとつである。それをないがしろにして、人は生を全うすることはできない。何より、本来は理性と感情は対立せずお互いが共存する存在であるはずだ。私もそう思う。

さらにいうと、哲学の失敗は「高位の価値」をセットしてしまったことだ、とドゥルーズニーチェは言う。そうしてしまったために、低位に位置づけられた価値に人生の重きをおいている人は、「価値のない存在」となってしまった。

ソクラテスは生を裁かれるべきなにものか、節制すべき、限界づけられるべきなにものかとする。そして思想を、高位の価値の名において——〈神性〉、〈真〉、〈美〉、〈善〉……などの名において用いられる一つの尺度、そこで実現される限界づけにする。 哲学者は、本書に何度も登場するように、こうして「立法者」として、高位に対立する低位の価値を低い物と見積もった。だがこのことは、低位の価値を重視する生に対して〈否〉ということであり、生の否定である。ドゥルーズニーチェは、生の否定に対してNOを突きつける。

〈力〉への意志

ドゥルーズは、ニーチェの思想内容解説の最後で、「よくありがちな誤解」として「〈力〉への意志」の誤解をあげている。

〈力〉への意志に関して(〈力〉への意志が、「支配欲を、あるいは「〈力〉を欲すること」を意味すると信じ込むこと)。

ニーチェの言いたいことはむしろ逆だ。〈力〉というのは、何かを「作り出すこと」である。そしてその「何か」というのは、肯定のエネルギーそのものだ。肯定のエネルギーを増幅させ、他との関係を徐々に逆転させていくことで、哲学に蔓延した「否定」の空気を逆転させることができる。これこそ、ニーチェ哲学の根幹だ。

ニーチェの語るところでは、〈力〉への意志はなにであれ欲しがったり、手に入れることに損するのではなく、むしろ作り出すことだ。・・・〈力〉への意志は相互の差異によって成り立つ示差的なエレメントであって、そこからある一つの複合体に向かい合う諸力が派生し、またそれらの処理機のそれぞれの質が派生してくるのである。だから〈力〉への意志はまたいつも動性に富む、軽やかな、多元論的な優位として提示される。

ニヒリズム

ニーチェニヒリズムにはいくつかの段階があると説明する。それをドゥルーズは本書の中で整理している。だが、それよりも次の事実の方がよりニーチェの核心に迫りやすいのではないかと私は思う。

以前のニヒリズムは、高位の価値の名において生の価値を貶めること、生を否定することを意味した。そしていまやこれらの高位の価値を否定すること、それらの代わりに人間的な——あまりに人間的な価値を置くことを意味するのである(道徳が宗教にとって代わる。有用性、進歩、歴史それ自身が神聖な諸価値にとって代わる)。

ここからは私自身の考えだが、神聖性が失われた現代は、非常に危うい時代になっている。道徳あるいは有用性、プラグマティスティックな考えは危険である。

なぜなら、道徳について言えば、誰かが「正しい」と行った時点で決まる恣意的なものである。そしてこれまでの歴史にも、ある過激派政党が自分たちの正当性をしきりに主張していたら、それがいつのまにか道徳的正しさをおびたように感じられた、という例さえあった。

有用性については「有用でない」ものは簡単に否定されてしまうからである。簡単な例で言うと金融市場だが、もうこのことについては言うまでもないだろう。マーケットで値段がついたものが正しい、という論理は「正しさ」の破綻を招く。

神聖性が失われたのは、神の死という大きなイベントがあったためだ。だが、神の死があったとしても、ニヒリズムは終わりを迎えない。なぜなら、ニヒリズムは持続し、ほとんど形を変えないからである。なぜ形を変えないのか。それは、担い手が同じ人間だからである。神の死において、「高位の価値」の意味は上に記したように代わったものの、結局「高位の価値」を定めている時点で、肯定-否定の関係が生まれる。これは、以前と構図が変わっていないと言えるだろう。

最後の人間

神の死のあと、人間は自分たちが神なしに物事をすますことができると主張するようになる。そして、神は自分たちであると主張する。自分たちが神なしで済ますことができるようになる、と主張しつづけると、だんだん虚無の世界へ深く入り込んでいく。なぜなら、「神」は物事の絶対的根拠であったから。道徳や有用性は、上に述べたように、相対的なものだから。

この思考が行き着く先は、「一切はむなしい、むしろ受動的に消え去ることだ!」ということになるだろう。一切はむなしいのだ。なぜなら、それは移り変わってしまうからである。だが、ここから人間の価値は反動し、新たな価値観を生み出すことになる、とドゥルーズニーチェは言う。

あらゆる価値の転換

あらゆる価値の転換は次のように定義される。

諸々の力が能動性へと生成すること、〈力〉への意志のうちで肯定が勝利すること。ニヒリズムの支配の下では、否定的なものが〈力〉への意志の形態であり、基底となる。肯定はただ二次的であり、否定に服従し、否定的なものの成果を寄せ集め、担うだけである。 いまやしかし、すべてが変わる。肯定は本質になるのであり、あるいは〈力〉への意志それ自身に成る。否定的なものに関しては、それが残存すると言えるが、しかし否定的なものは肯定する者の存在の様態として残存するのであり、肯定に固有の攻撃性として、先駆ける稲妻として、また肯定されるものにつき従う雷鳴として——つまり想像に伴う全的な批判として残存するのである。 価値転換とは、肯定 - 否定の諸関係をこのように転倒することを意味するのである。

ところで、肯定すると行った場合、ドゥルーズニーチェの肯定は何をさしているのだろうか?それが先ほどから話題に上っている「生」などである(ドゥルーズはさらに、大地などもあげる)。

これは、おそらくドゥルーズ自身の思想とも深くかかわり合った記述だと思う。なぜなら、ドゥルーズは自身の哲学を「自然哲学」「生命の哲学」として語りだしているからだ。差異を差異として認め、差異自体あるいはその集合全体を肯定することこそが、ドゥルーズ哲学の根幹をなしているからである。

これは具体的には、精神疾患を抱えた人間をどう捉えるべきかという問題に対する回答に現れている。現代では、統合失調症などを「病」として扱い、治すべき対象としてみなす。つまり、否定するのである。

ところが、統合失調症などはある種の個性であり、他人との差異と捉えることも可能だろう。何よりドゥルーズは生の否定を嫌った哲学者だった。統合失調症を差異として認め、その差異を否定することをできるだけ排斥した。差異を差異のまま肯定すること。

これがなされたとき、新しい価値が生まれることになるだろう。そしてこのことが、ニーチェを通してドゥルーズが伝えたかったこと、なのかもしれない。

ニーチェ (ちくま学芸文庫)

ニーチェ (ちくま学芸文庫)

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