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気まぐれに書評とか。

『イデーン』『コネクトーム』

フッサール。その名前を高校の倫理で聞いた方は多いだろう。だが、フッサールが何をいい、何を考えた人かということまで知っている人は少ない。「あれだよね、現象学を唱えた人」――そこまで答えられればいいほうだろう。ドイツ観念論を代表するカントやヘーゲルの名前を知っている人は多いが、フッサールの名前を知っている人はまず少ないし、その思想内容はカントの二律背反やヘーゲル弁証法ほど知られてはいない。

現象学の主要な概念はいくつかあるが、とくに抑えなければならないのは「志向性」という概念だと私は思う。もちろん、諸説ある。人によっては、ノエシス-ノエマの方が大事だというだろうし、本質観取の方が重要な概念だ、という向きもあるだろう。だが、私個人としては、この志向性という概念は画期的で、しかも思想の最先端を行っていると考えている。

物事は、それ単体として「存在する」とは言えない。もしも、物事が、物事自身が、単体としてそこに「ある」ということを認めてしまったとする。そうすると、物事には「核心」「中心」が必要になる。何かが単体で「ある」ことを認めるということは、何かの真因がそこに「ある」ことを認める、ということだ。だが、これは随分前に哲学者が言ったように、因果論に陥ってしまう。物事には必ず原因があり、その原因はさらに原因を持つ。さらにその原因の原因をたどっていく。そうした思考は、最終的には「存在を基底する絶対者」という存在にたどり着かざるを得ない。だが、これはプラトンの「イデア」の話と同じで、「認めるか」「認めないか」の議論になってしまい、埒が明かなくなるのは目に見えているだろう。

一方で「志向性」という概念は、そういった「存在を基底する絶対者」を認めない。志向性とはドイツ語でいうとIntentionalität。これを英語に直すと、Intentionality。つまり、行為の「意図」くらいの意味がある。「意図」をどこかに向けることこそ、志向性という概念である。ところで、意図をどこかに向ける、というのはどういうことだろうか。私はこれを、「関係性を結ぶ」ことだと理解した。何かと関係性を結ぶこと、これこそ「志向性」なのだろうと考えている。どこかに人が意図を向けると、対象があると認めることだ。つまりその時点で、私は対象と関係性を持つことになる。関係性に「存在を基底する絶対者」はいない。関係性はつねに時間によって移り変わるものだからだ。そこには同一な何かは存在せず、ただ関係のみがある。言うなれば、関係性そのものが存在そのものである。

もちろん、上記の仮説は私の勝手な仮説に過ぎない。だが、フッサール志向性という概念を生み出した後に発展させていった思想の変遷を見る限り、意図する意味はそんなところだろうと考えている。そして、志向性という概念を拡張してハイデガーが『存在と時間』を書いたと考えるなら、この考えは大きく外れてはいないと思う。

ところで、なぜ私が「思想の最先端にあるかもしれない」と言ったか、という話をしたい。それは一冊の脳科学の本との出会いによって確信された。世界でも最先端の脳科学の考え方は、現象学の考え方と似通っていた。

最近、一冊の脳科学の本を読んだ。そこには、脳はなんとか領野という部分にわけられて考えられるほど単純ではなく、ニューロンの総体をもって一つの働きをなしている――そんな風に書かれていた。脳科学では、言語を司るのは脳のこの部分、視覚を司るのはこの部分、という見方をするのが通説となっている。みなさんも、テレビ番組等で一度は見たことがあるだろう。

だが、この理解では説明できないことがある。それは、単純な事実だ。特定の領野の部分が仮に停止したとしても、脳はその停止した領野の働きを補う機能をもっている。このことである。脳の左半分を失っても、残った右半分が左半分の機能を持ち始める、という話を一度は聞いたことがあるだろう。それである。

それを説明するのが「ニューロンの関係性」という概念だ。ニューロンの「関係性」こそが、脳の動きそのもので、さらにいうと、ニューロンの関係性こそが、その人自身なのだ。こんなことが、その本には書かれていた。

私はこれを読んで、現象学をすぐに思い出した。とくに「志向性」の概念を思い出した。結局、自身は対象がなければ存在していることにはならない。存在という概念の中にはつねに、何かしらの対象が存在している。また、自身というものは何かの「総体」なのだから、これまでの哲学や科学がやってきたように、とにかく物事を粉々に分割して事態を把握しようという考え方では限界がある。ある物とある物同士の関係性を分析することこそが、事態を把握する上では重要になってくる。

最新の脳科学と現象学の思考のエンジンとが似通っていることをもって、思想の最先端であると言ってしまうのは甘いかもしれない。だが、現象学はこれまでも哲学の陥っていた二元論のジレンマをある種うまいやり方で解決してきた。フッサールの用意した思考の断片には、まだ見ぬ新しい使い方があるかもしれない。その可能性は無限に向かって開かれている。

こんなことを考えた。

コネクトーム:脳の配線はどのように「わたし」をつくり出すのか

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