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気まぐれに書評とか。

『それをお金で買いますか』

久しぶりにマイケル・サンデルを読んだ。じつは私は大学時代に、マイケル・サンデルの日本の伝道者の主催するゼミに参加していたことがある。だから、サンデルの思想には当然かなり長いこと触れ合ってきたし、その問題点もまた、多少ばかりわかる。そして、社会人になってまだ約3ヶ月ではあるけれど、学生時代に感じたことと社会にでてからサンデルを読んで感じたことの差をやはり、実感することができる。

今日は本書の内容というより、どちらかというとサンデル批判と私の考えていることを中心に書評を行うことになると思う。まず結論から言うと、「コミュニタリアンの限界」は「共通善」を設定してしまったところにある、という元も子もない議論である。どういうことかはこれからお話する。

マイケル・サンデルは一般に「コミュニタリアン」という思想グループに属す。本人は「コミュニタリアン」と名乗っているわけではないから、公式ではないけれど、人間はどうしても分類をしたがる生物なので、一般にそう分類される。サンデル系譜にはマイケル・ウォルツァー、チャールズ・テイラーなどが入ってくる。

そして、コミュニタリアンの主張に共通するのが「共通善」という考え方。誤解を恐れずに一言で簡単に要約するとすれば、「みんな幸せに生きるために、みんなにとって善いもの」ということになるだろうか。この「共通善」という考え方が、コミュニタリアンたちの主張の基盤になっている。

たしかに、現代ではこうした「共通善」は次々失われつつあるように思われる。たとえば本書の例でいくと、「成績のよい子どもにはお金やってもよい」「よい成績には報酬を払うべきだ」といった議論から、「お金を払えば行列の先頭に入り込むことができる」といった議論がある。これらは、サンデルから言わせれば「共通善」を失った結果、そうなったのだ、ということになる。

具体的にサンデルは、「公正の観点」と「腐敗の観点」から、このような風潮に対して批判を加える。行列の先頭に割り込むというのは、突き詰めれば金持ちだけが優先して特別な待遇を受けられるようになってしまうということを意味している。これは「公正の観点」から、正しくないと批判できる。また、「よい成績をとったらカネをやる」という行為は、「よい成績をとる」という行為の品位を落とすということにつながり、これは「腐敗の観点」から、正しくないと批判する。

ただしここで疑問をもちたいのがこの「腐敗の観点」である。

腐敗の観点というのは、そもそもこの世界には「低級」なものと「高級」なものが存在するという前提があってこそ成り立つ議論である。しかし、ほんとうにこの世の中に「低級」なものと「高級」なものという格差が存在しているのだろうか。この点について、サンデルは本書の中では何も答えていない。

すこしサンデルに譲歩して、「低級」と「高級」が存在しているかもしれない、という方向で思考実験をしてみよう。たとえば、価格の高い安いによって「低級」「高級」が成り立つ世界が存在するとする。ここで「いろはす」について考えてみよう。「いろはす」は安くて決して「高級な水」というわけではない。日本では100円という、ほかのルイヴィトンやグッチなどからすればかなり安いという点で、「いろはす」は低級な商品だと言える。だが、これを砂漠のどまんなかで販売したらどうなるだろうか?「10万」「20万」という値段が平気でつく可能性がある。なぜなら、砂漠では水はとても貴重な存在だからだ。この時点で、もしかするとルイヴィトンのかばんの値段を越えてしまうかもしれない。こうなると、「いろはす」は一気に高級な商品に変わってしまうことにある。

つまり、ここから言えることは、「低級」「高級」はある種の「前提」を用意しないと成り立たない議論である、ということである。また、低級や高級はいろはすの例からわかるとおり、簡単に順序が入れ替わってしまう原理であるということもわかる。ここから何が言えるだろうか。「腐敗の観点」については、成立の根拠が薄そうだということだ。それは個々人の主観による判断であり、普遍的なものではない。いつもみんなを幸せにする議論である、そのために必要なものだ、とも言えないのである。決して「共通善」の議論のために使える原理ではないということだ。

「善」「正しさ」などを議論しだすと、じつは切りがない。それは「相対主義」というものが証明している。要するに「人それぞれだよね」「状況次第だよね」なのだ。つまりここから言えることは、「共通したものは何もない」ということである。極論すれば、こういったものは存在が怪しいということだ。

こういう反論が成り立つ状況下でムリに「善」を設定しようとすると、それこそ管理社会になりかねないし、まして全体主義のはじまりだ、という批判もできてしまう。ここに、コミュニタリアンや政治哲学の弱点がありそうだ、と個人的に学生時代に考えていた。

さらに社会人になってから思うことは、「善」「何が正しいか」という問題は、じつは個々人の「信念対立」なのだということだ。社会人になると、まったくバックグラウンドの異なる人と仕事をしなければならない。その中で直面するのは「意見が合わない」ということだ。なぜ意見が合わないのか。ひとつは、人類普遍の共通の価値観が現代においてないこと(条件付きでしか存在しない)、もうひとつは信念対立を埋め合わせる対話の方法がないことに原因がある。

しかし、前者は先ほどきっぱりと「存在が怪しい」と否定している。そういうわけで、「信念対立」を埋め合わせる対話アプローチの構築が、じつは政治哲学には求められているのではないかと考えているのだ。だから、私たちが目指すべき目標は、コミュニタリアンのような「共通善」の設定やその議論などではなく、「信念対立」の克服の方法なのではないだろうか。

信念対立を克服し、合意という間主観性のもとに共通の価値観を立ち上がらせることは可能かもしれない。しかし、「人類共通の」というのは、もはや宗教以外では不可能ではないかと思う。ここからさらに私が気になっている観点は2つだ。一つは、対話の方法である。そしてもう一つは、なぜ宗教は、普遍的な価値観を浸透させることができたのか?という点である。この2つの点については今後も探求したいなと感じる。

それをお金で買いますか――市場主義の限界

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