『読書について』
ショーペンハウエル。このブログの読者の方は、すくなくともビジネス書の書評はあまり望まれていないであろうから、今週の締めくくりとして1冊古典の書評をしておしまいにしたいと思う。
- 作者: ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤忍随
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/07
- メディア: 文庫
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思えば、先週は4、5冊本を読んだ。研修が若干緩かったので、一気に読んでしまおうと思ったのだ。基本的には電車の時間以外には本を読まないので、電車の往復1時間で読んでしまうことが多い。同期に「いつ本を読んでるんだよ」と言われるので補足。本を読めるかどうかは、集中力の問題である。
で、問題のショーペンハウエル。『読書について』は、正直以下の3つの主張を抑えておけば読めたと同じである。
- 読書とは他人にものを考えてもらうことであるから、自分の頭で考えることをしないといつかは馬鹿になる。
- 悪書は読むな。
- 新刊にすぐに飛びつくな。ある程度、市場で淘汰され選びぬかれた古典にこそ価値がある。古典はギリシャ・ローマのものが最高。
1については、最初に登場してくる。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。…だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。…そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。
2については、判断基準が難しけれど、1年未満で消えてしまうようなはやりの本のことを言っているのだと思う。最近で言うと、ピケティの21世紀の資本などが当たるだろう。あの本が、1年以上経ってもまだ論じ続けられるようであれば、本当に価値のある一冊だと言える。
3については、これは1にならって私は少し考えていることを言おうと思う。現代において、新刊を読まずにいることは、情報の変化に対応できなくなってしまうことと同義だ。新刊を読むこと、とくに最新刊を読んで最新の情報を得ることは、大きな差別化戦略となりうる。したがって、現代において「新刊を読まない」という選択肢はありえない。
しかしながら、古典を読むことの重要性は一理ある。古典は、全人類の共通言語と言える。とくに、ギリシャ・ローマの古典のうち代表的なものを読むことは、欧米の大学でも普通にあることであるし、日本の教養課程でも行っていることである。大学生ともなれば、プラトンやアリストテレスに触れることはあるだろうし、ローマ時代で行けばストア派やエピクロス派、さらには悲劇や喜劇に触れることは、一度や二度ある話だ。そういった共通言語を知るという点で、古典は重要である。
また、古典にはもうひとつ重要な要素があると思っている。それは、人間の思考原理の根本を知るという点だ。古典ーーたとえば、ヘロドトスの『歴史』ーーを読めばわかるけれど、人類というのは2000年以上前から相変わらずアホなことをたくさんしている。そのアホの仕方も、2000年前と大して変わらなかったりする。ここがおもしろいところで、人間の思考の根本原理は相変わらず不変なのだ。言葉で言い表すことは難しいけれど、そういった「変わらない文法」を知るという点で、古典は非常に面白い。
思えば、ショーペンハウエルの『読書について』も、ずっと読み継がれている古典のひとつである。読書に関心のある方はぜひ読んでみることをおすすめする。