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気まぐれに書評とか。

禅語は人としてあるべき姿を教えてくれる――感銘を受けたの3つの禅語

 先日、京都でお寺に寄る機会がありまして、お寺のおみやげとして売っていた「仏教のありがたいお言葉」みたいな絵葉書に触発されました。それで、ちょっと最近疎遠だった「禅のことば」を読みたいと思って、図書館で読んでみたんです。

 これが、思った以上によかった。禅語は、読むだけで心が洗われる感じがしますね。これから定期的に読み返したいなと思いました。

 では、実際に僕がいいなあと思った禅語をみなさんにご紹介します。はっとさせられるものがとても多いですよ。

「眼不自見、刀不自割」(眼は自らを見ず、刀は自らを割かず)

 これはどういう意味か、なんとなく想像できますよね。眼は、自分を見ることができない。刀は、自分で自分を傷つけることができない。

 つまり、「人は自分自身のことを、周りを通してでしか、知ることができない」という意味ですね。周りの他人が自分の鏡である、という意味です。周りに集まっている人をよく見てみなさい、それがあなた自身を表してるんですよ。

 さらに裏を返せば、人はフィードバックをもらわないと自分の立ち位置がわからないという意味にもなりますね。だから、僕は積極的に色々フィードバックをしてあげなきゃな、と思いました。

 似たような言葉に「喫茶去(きっさこ)」ということばがあったことを思い出します。これはどういう意味かというと、「お茶してきなさい」くらいの意味です。

 しかし、この「お茶」というものが曲者で、お茶は、他人と一緒でないとできませんよね。そこから、一期一会の精神であったり、さらには他者を通じて自らを知る切っ掛けともなる、という意味に発展するそうです。

 すばらしい言葉ですね。

石圧笋斜出、岸懸花倒生(石圧して笋斜めに出て、岸に懸っては花さかしまに生ず)

 これは、「人を導くときには、相手の内面や状況に合わせてやり方を変える」という意味です。

 じつは昨日、Twitterで「ほめること」について考えていたのですが、僕が昨晩考えていたこととこの禅語とは見事にマッチしているなと思いました。参考までに、いくつか昨晩のつぶやきを引用しておきましょう。

 「ほめる」の次の次元の行為としては、後輩の成果物がある一定の高水準ラインを突破したときだけほめる、というものがある。これは難しい。なぜなら、その高水準ラインというものを先輩が体現できなければならないからだ。つまり、一級や一流がわかる人にしかできない。

 また、こういった先輩は、普段はほめることをしないという行為を行わなければならないため、後輩からはどちらかというと恐れられる。これに耐えられる強い人であることもまた、上級のほめるテクを使う先輩には求められる。嫌われる覚悟、子離れができなければならないのだ。

 ほめるは当たり前。もちろん、低次元のほめは初期段階において重要。とことんほめる。それは大切だが、しかし、それを長く続けてしまうと、ぬるま湯組織が生まれてしまう。後輩の成長レベルをみて、厳しくいくかそうでないかを的確に見極める力量。これが求められるだろう。

 なお、お坊さんは弟子を育てるとき、まずは「見守り育てる」。次は、「喝を入れる」。そうすると「弟子が悟る」というのを経験則として心がけているそうですよ。これは、動物界に置いては、親鳥が卵を温め、頃合いのよいタイミングで卵を突付き、ひなを孵化させるという行動に似ているんだそう。しっかり「見極めて」「喝を入れる」のが、弟子の育成においては重要視されてるんですね。

刀瘡易没、悪語難消(刀瘡は没し易く、悪語は消し難し)

 これはどういうことかというと、「人は自分の発した言葉による相手への影響を過小評価しがち」という意味なんだそう。たしかに、自分にも思う節があります。言葉遣いには気をつけようと思わされました。

 物理的な傷よりも、精神的な傷の方がなかなか癒えないということもできるんじゃないでしょうか。愚かな凡人は、自分の言葉の威力を案外認識していないのだ。想像以上に、人を傷つけているんだと言われたような気がします。

 また、人の心を丁寧に扱うためには、自分のことばが相手に及ぼす影響力の本当の強さを知るところからはじまる気がしますね。「言い方」には気をつけたいものです。反省。

 なんだか、もっと色々ことばがあるので紹介したいのですが、これ以上書くと記事が長くなってしまうので、ここまでですね。最後にオススメの本を紹介して終わりにします。

 

禅語

禅語

 

 ちなみに今日読んだ本は上の『禅語』という本でした。

禅的生活 (ちくま新書)

禅的生活 (ちくま新書)

 

 これは、僕も結構前に読みましたが、とても刺激的な一冊でした。また読み返そう。