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気まぐれに書評とか。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない――『論理哲学論考』

論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫)

論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫)

 

  「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」――この言葉に最初に出会ったのは、たしか高校の倫理の授業であったと思う。先生の説明で大方その言葉の意味するところはわかった。いや、わかったつもり、というのが正しいだろうか。まさか大学生になって、この言葉の意味がわからなくなるなどとは、思ってもみなかった。

 わからなかったのだ。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。この訳語がよくないのかもしれないが、古代ギリシャを徹底的に学んだ人間としては、どうにもこの言葉が納得いかなかった。

 たとえば、プラトンイデア論は無駄になるのか。アリストテレスがニコマコス倫理学で一生懸命追求した内容は無駄になるのか。ウィトゲンシュタインのこのたったの一言で、今までの哲学の仕事の成果が否定されてしまってもよいのだろうか。

 しかし、真剣に『論理哲学論考』を読んでみて感じたことだが、別段ウィトゲンシュタインは過去の哲学の実績を否定しようとはしていなかったように感じられた。彼は後半で倫理や美についても少しだけ語る。倫理や美を「考える」ことまでは否定していないのである。

 『論理哲学論考』はどういう本か

 この本は開いてみればわかる。数学のようだ。シンプルで研ぎ澄まされた文章が最初から最後まで並ぶ。

 読み方についてはほかの入門書に書かれている通りなので割愛する。私が読んでみて感じたこととしては、「7. 語りえないことについては、沈黙するしかない」という結論からどんどん逆に読んでいくとおもしろいしわかりやすいということだ。

 この読み方があっているか間違っているかはわからないが、7をいうために、1〜6の命題が並んでいる。だから、7から逆に考えていくと非常にわかりやすくなる。

 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とはどういう意味か。私は少し考えてみたが、それはこういうことだろう。

 たとえば、「神」という概念?について語るとして、ウィトゲンシュタインの議論に沿って考えるとすると、私なりには以下のとおりになった。

  1. 人は「神」の一部だけについて知識を持っていて、ほかの部分は知らない。つまり、未知の部分が残っている状態である。
  2. したがって、我々は「神」の全貌を言語で表せるはずはない。それはつまり、理解できないということである。言語で表わせる・語りうる範疇を超越することはできない。(⇔「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」)
  3. しかし、形而上学は、そういったものを、言葉を尽くして語り、何かを得ようとしている。それは無意味である。(⇔「哲学がするべきことは、ふだん、いわば濁ってぼやけている考えを、クリアにして、境界をはっきりさせることである。」)
  4. そういった哲学のやり方は間違いであり、哲学の役割は違うのだから、別の方向を模索するべきである。(⇔「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」)

 本書の理解の鍵となるウィトゲンシュタインの有名な言葉がある。「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」。つまり、自分が言葉で表すことができなければ、いくら外にある概念があったとしても、それを理解したことにはならないということだ。

 よく問題になるのは、色の話だろう。日本人は虹を7色として捉えるが、地域によっては5色で捉えていたり3色だったりするそうだ。これはなぜかというと、虹に該当する色を表す言葉が、7色の地域は7つあり、5色の地域は5つあり、3色の地域は3つあるからだ。7つの言葉を持つ地域は7つ分の概念(世界)をもつと言える。5、3の場合も同様だ。これが、「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」ということだと思う。

おわりに

 ここからは、本書の内容とは関係なく自由に話を進める。したがって、本書の中に書いていないこともどんどん出てくるのでご承知おきください。

 やはり気になるのは、「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」というところである。(語りえぬものについては〜というところは、正直どうでもよかったりする。)

 これは思い当たるところがあって、相手の頭の中にある情報量と自分の頭の中にある情報量が異なれば当然、コミュニケーションは円滑に進まない。なぜなら、相手の認識する世界と、自分の認識する世界とが異なるからである。世界が異なるのだから、当然理解し合えない。

 極端な例を出すと、イスラム教徒とキリスト教徒とでは生きている世界が異なるのだ。コーランに書かれていて、聖書に書かれていない内容があるとすると、その時点で言語の領域に違いが出てくる。頭の中に持っている言語概念の数や領域が違えば、もうその時点で世界は違ってきてしまうのである。これはなるほど、と思う。

 だけどやっぱり、分かり合える部分はあるんじゃないの?という感じがする。「AかつB」の領域は、どの人間でも、人間である以上は存在するはずだ。イスラム教徒もキリスト教徒も「神を信じる」という点では共通項がある。だから、「神を信じることを理解する」ことはできる。これは当たり前の話だ。

 ここで話を拡大してみよう。人は犬を見て犬の感情がわかる。私は実家のペットの感情が手に取るようにわかる。だから、彼をもてあそぶのである。ゆえに、生物と人間の間にも、「AかつB」の領域は存在するはずである。だけどそれは言葉にできない何かである。表情かな?しっぽかな?とは考えるわけだが、それがすべてではないかもしれない。しかし、何かを人間は感じ取っている。

 しかし、ウィトゲンシュタインに言わせればそんなものは存在しないということになりかねないのではないだろうか。でも、確かに厳然に「犬を見ればなんとなく感情が分かる」という事実は存在する。(これが〈語る〉と〈示す〉の違いなのか?まだウィトゲンシュタインは学びたてなので、そのあたりの区別がつかないが。)

 だから、「言語の限界は世界の限界」というのは本当にそうかな?と感じてしまう。すべての大本にあるのは言語だし、言語にしないと人間は識別できない。けど、いわゆる「直感」や「洞察」の領域も考慮しないと、人間のすべては描ききれないんじゃないかと思った。

 で、「哲学がするべきことは、ふだん、いわば濁ってぼやけている考えを、クリアにして、境界をはっきりさせることである。」という言葉に戻ってくることになる。その領域も、「クリアにして境界をはっきりさせれば」、結局「言語」の領域に収まるのかもしれない。世の中は難しい。

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