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気まぐれに書評とか。

『経済成長神話の終わり』

 

経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書 2148)

経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書 2148)

 

 

現代の資本主義に疑問を抱く人は多いだろう。しかし、「資本主義に問題がある」といったところで、いったいどこにあるのかを明確に突き止めなければ、対処のしようがないこともまた事実である。いうなれば、身体に病気があることはわかっているが、その病気がどこから発生しているかがわからない状態が、世間では続いているように感じられるのだ。

私が思うに、多くの人が疑問に思っているのは、資本主義の、他人を蹴落としてもよいから利潤追求を是とする姿勢ではないかと思う。Winner takes all.ということばは資本主義の本質をあらわしているが、このwinnerに入れなかった人たちはいったいどうすればよいのだろうか。winner以外を切り捨てる資本主義のメカニズムに疑問を感じる人は多いだろう。ちなみに私もその一人である。

しかし、経済学の教科書をひもといてみると、「勝者以外は〈切り捨て〉」「他人を〈蹴落とす〉」ことを是としている教科書はどこにもない。利潤追求を是とする姿勢は、たしかにアダム・スミス国富論』をはじめとする経済学書に掲載されている。だが、敗者を〈切り捨て〉、他人を〈蹴落として〉もよいと書いてある教科書はどこにもないのだ。なぜ、こぼれ落ちた勝者以外の人たちを切り捨てるようになってしまったのか。どういう論理が、人びとを〈切り捨て〉・〈蹴落とす〉方に突き動かすのか。これは追求しなければならない議題だろう。

けだし、他人を〈蹴落とす〉というのは何かに焦らされてのことではないか。つまり、何らかの強迫観念が、人びとを「失敗するくらいなら他人を〈蹴落として〉もよい」と思わせてしまっているということだ。それはなにか。

私は、こういった事態が起こってしまったのは「経済成長を”大きく”しなければならない」という強迫観念に由来すると考えている。「大きく成長」という部分がミソだ。そして、日本やアメリカはおそらく、新興国並の経済成長を望んでいる。それはかなわぬ夢なのだが。

筆者は、「(飛躍的な)経済成長」とは冷戦時代に共産党圏に対抗するための対抗概念として生み出されたものであると喝破する。そして、そんなものは以前の世界ではそれほど重要視されていなかったにもかかわらず、以前の世界の人々は暮らしを営めていたという。なにより現代において、それほど経済成長を重視しない国々も出てきつつあるのだ。そんななかで日本はいまだに”あの頃のような”経済成長をし続けようとしている――そのように語っているように、私には感じられた。もっとも、これは見当違いだとは思うが。

筆者は、その対抗概念として「デクルワサンス(減成長)」というものを紹介している。これはフランス語で、「デ」というのは削減を表し、「クルワサンス」とは成長を表している。成長を減らすこと、それがデクルワサンスの日本語訳になる。

この思想は、技術的な環境問題だけではなく、社会や政治問題を含む、全体論的なものである。かつ、もっと充実した人生、などといった点を考慮しながらも、特定の宗教観に偏らないようにしている。個人的に、このアプローチが、日本の将来を考える上で、いい刺激を与えてくれると思っている。

経済成長の対抗概念としての減成長。成長の速度をそれほど求めない社会。限界を限界として現実逃避せずにきちんと受け止める社会。

そしてなにより、地球資源が有限である以上、無限に経済成長を求めることなど不可能なのだ。経済成長も有限な人間の創りだした概念である以上、それが無限であるというのは矛盾している。その点で、資本主義は矛盾をはらんでいると言えるだろう。

また、先ほどあげた引用に「全体論的なアプローチ」ということばがあったと思うが、それこそがまさに今の日本や経済学には求められている。

新古典派経済学は、社会を「個」の集合と考え、個別の施策をもって部分に対して働きかけを行おうとする傾向にある。私はこれは間違っていると考えている。まったくの独立した個の問題であれば個別に施策を打つだけでも十分対処できるが、本来社会というものは魔物で、さまざまなファクターによって成り立っている。そのファクター同士の関係を無視した議論では本質的な解決策を打つことはできないことは、少し想像してみれば分かる話だ。 

新古典派経済学は物理学に憧れすぎ、社会を単純な数式モデルで表すことに腐心したといわれている。そのこと自体が悪いとは思わない。社会情勢がそれを要請した面があるからだ。だが、それでは現代での問題に対処できない。単純なモデルから複雑なモデルへのモデルチェンジが求められると個人的には思っている。

昔、ジル・ドゥルーズという哲学者が、『千のプラトー』という本で「リゾーム*1という概念を提唱した。これが経済学にも必要ではないかと考えている。もっとも、リゾームを使ってすべてを考えろという意味ではない。社会構造がリゾーム状になっていることを前提として物事を考えようということである。

そのほか、新古典派が切り捨ててきたものはあまりにも大きい。倫理や正義といった、人間の心の中に本来あるような概念もまた、新古典派理論のなかでは捨象されている。捨象されたものはシンプルではあるが、シンプルであるがゆえに複雑すぎる現代においてトラブルを巻き起こしているのだ。

*1:リゾームという概念については、こちらのサイト(『千のプラトー』のインフォグラフィック | OVERKAST)が非常にわかりやすいインフォグラフィックを公開しているので、オススメ。

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