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気まぐれに書評とか。

『なぜモナ・リザは名画なのか』―なぜこれほどまでの名声を得たか、そして絵の限界に迫る

モナ・リザを知らないという人はいないだろう。そのまま、あのレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、世界でもっとも有名といっても過言ではない作品のことである。その浮世離れした美しさと、ダヴィンチ・コードをはじめとする作品で語られるミステリアスな側面から、描かれてかなりの年月がたつにもかかわらず、いまだに話題に事欠かないことからも、その影響力がよくわかる。

現在は、フランスのルーブル美術館に収容されており、私も小学生のころに見に行ったことがある。ルーブルの一角に、ひとつだけ絵が厳重にガラスで覆われているエリアがある。そこにあるのが、「モナ・リザ」である。

本書のタイトルは、『なぜモナ・リザは名画なのか』というもので、タイトルだけを見ると、「人がモナリザ(だけ)を美しく感じる理由」を想像させられる。科学的分析を含む本なのかと思ってしまう。しかし、筆者の真意はそこにはない。筆者がほんとうに問いたいのは、「無数にある絵画の中で、なぜこの絵だけがこれほど有名になったのか?」ということだ。そしてさらに筆者は、3つの問いを冒頭で提示する。

  1. どうしてこの絵はこれほど有名になったのか?
  2. はたしてこの絵は、そこまでの名声に見合う名品なのか?
  3. なぜこの絵を見ても、新鮮な感動を味わうことができないのか?

以下、私が本書を読みながら考えたことを簡単に記していこうと思う。本書は事実を淡々と語ってはくれるが、これらの問いに対する答えを明確に示してくれるわけではない。ここに書かれている事実から、読者がどう解釈するかにかかっている。マッキンタイアのことばを借りれば、歴史は、誰かが語ることで生まれる、主観的なものなのだから。

どうしてこの絵はこれほど有名になったのか?

この問いに答えるには、まず「モデルと描いた場所が謎」ということがあげられる。なぜこのような事態が起こってしまっているのか。それは、ダヴィンチの手記に「モナリザ」のことが一切記されていないからである。というのもダヴィンチの手記の多くは喪失されてしまったといわれており、発見困難だからである。おそらくはその喪失された手記の中にモナリザに関する一節があるのだろうが、現状確認できていない。これがまず、この絵画のミステリアスさ原因となっている。

ただ、モデルについては、ダヴィンチの師匠だったヴァザーリという人が書き記した有力な証拠が見つかっている。しかも、このモナリザのモデルとなった女性の家族も公認しているというのだ!くわしいことは本書をお読みいただきたい。

また、「描かれた場所」の謎については、まったく見当がついていないようだ。まず、ルネサンス期では背景をきちんと描く習慣がなかった。この時点でダヴィンチはほかの画家よりも数歩進んだ絵画を描いたわけだが、さらに彼の風景画のスケッチの記録を見る限り、どうも「コラージュ」を行う癖があったようだ。ゆえに、モナリザの背景に描かれている謎の風景も「コラージュ」だった可能性が高い。この時点で、描かれた場所は特定困難となったといっても過言ではない。だから、「描かれた場所」は謎のままなのだ。

モナリザは、こうした謎が憶測を呼び、さらには批評家たちの暴走によって、強引なモナリザ解釈が誕生し、その論争に拍車がかかってますます有名になったという面もある。私はこれをみるにつけ、アンリ・ルソーもそういえばそんなことがあったなと、思わずにはいられなかった。

はたしてこの絵はそこまでの名声に見合う名品なのか?

これは、私が本書を解釈して感じたことだが、ダヴィンチの絵は、たしかに名品「だった」。

ルネサンス期、さらには17世紀の絵画で、これほどまでに精緻に人物を描き上げた画家は、ダヴィンチを除いてほかにはいない。それはダヴィンチの丹念な自然探求の成果だったともいえる。彼が人体を解剖していろいろ研究していたという話は有名だし、骨格等ときちんと把握しながら描いたものだから、もっとも現実に忠実な作品になるのも至極当然といえる。

だが、その「すさまじいまでのリアリティ」は、あるものの登場によって急激にその地位を奪われることとなる。それは、写真だ。写真の登場によって、モナリザは最新の絵画から一気に古臭い絵画になってしまった。結局いくらリアルに絵を描いたとしても、それは「絵」でしかない。写真はすべてを映す。ここに、このモナリザの限界があったといえる。

もちろん、写真のない時代にこれほどまでのリアルな絵を描きあげるダヴィンチの技量には感服するばかりではあるが、彼の絵も結局、科学技術に打ち勝つことはできなかった。科学を利用して完成度の高い絵を描き、その時代のほかの絵画を大きく突き放したが、逆に科学によって、自らの絵を乗り越えられる結果となってしまった。歴史の皮肉な事実である。

なぜこの絵を見ても、新鮮な感動を味わうことができないのか?

私も経験がある。モナリザを実際に見ても、あまり感動しないのだ。本書の筆者は「失望にも近い無感動」と書いているが、その感覚はわからなくもない。

ひとつは、現代人はモナリザと対面するとき、結局「絵」と対面する気分でそれを見ようとすることにある。しかし、実物のモナリザは「うまく描かれた絵」でしかなく、ひどくいえば「写真のなり損ない」でしかない。これが、モナリザを見る現代人を失望させる原因となっている。

ダヴィンチの絵は、たしかにルネサンス期の人を大いに感動させた。だがそれは、モナリザの持つ「写実性」の新しさによってだった。その写実性の目新しさが、「写真」という新技術によって取って代わられてしまった現在、人々は写実性を求めて絵をみなくなっている。これが現代人の失望の原因だ。

また、これは私の考えだが、モナリザの絵はキャンパスサイズが少し小さいところにも失望の要因は隠れている。肖像画を目的に描かれたものだろうから、小さくて当然といえば当然なのだが、絵画カタログや資料を見て頭の中に想像したモナリザの壮大さから比べれば、実物ははるかに小さかった。その点もまた、モナリザを見る人を失望させる原因となっているのかもしれない。

モナリザには、奥の景色を壮大にみせる工夫がほどこされている。ダヴィンチが開発した画期的な「空気遠近法」という技法によって、無限にひろがる奥行きを作り出しているからだ。資料を見る際は、その奥行きに目が行き、ついついモナリザは大きい絵だと勘違いしてしまう。しかし実物は、その想像よりもはるかに小さい。そのギャップが、実物を見る際には耐えられない。

ボードリヤールのようなことをいうけれど、私たちはもはや、モナリザ自体を鑑賞しているのではない。モナリザにまつわる記号、つまりその謎めいた出自やエピソードを鑑賞しているのだ。その点、すべての謎が解明されつくさない限り、モナリザは今後も魅力的であり続けるだろう。

そのミステリーを解明する旅に出たい方はぜひ、本書を一読してみることをおすすめする。