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気まぐれに書評とか。

モノを考えるということ

昨日、ひとつ自分が看ていた企画が終わった。いろいろ紆余曲折を経て、なんとか成功したといえると思う。

企画をするにあたって、感じたことがいくつかあった。簡単に、今後のために私が企画をしながら何を思っていたか、書こうと思う。

結論からいうと、きちんと考える作業が足りなかったの一言につきる。とくに企画の前半期間において、なかば思考を諦めている傾向にあったのではないだろうか。これは、非常に反省すべき事態だ。なぜなら、そもそも最初から考える作業を放棄してしまったら、そこからなにも生まれないし、生みだせないからだ。

考える方法がわからない、というのもわかる。考える作業というのは、たしかに経験を積まなければうまくできない面もある。しかし、考えることに適性なんてものは存在するのだろうか。いや、存在しない。だれでも、基礎体力はもっている。真摯に問題に向きあえば、答はだせるはずである。結局のところ、めんどうゆえに考えることを放棄したとそう捉えられかねない。

考える作業をめんどうくさがって考えもしない。義務教育の弊害から、いつまでたっても抜け出せない。だからつねに、「お上」のヒントを必要とする。しかし、それではいつまでたっても、自分の足で歩くことのできる人間にはなれない。

また、考え抜かないから、決定して答をだすことも怖くなる。決定しないから、企画が前進しなくなる。あらゆる物事について、そこに決まりきった絶対的に正しい答や解はないのだから、蓋然的な答を決定してしまって、先に進むことが大切なのだ。

そして、今の企業がもとめている人材もまさに、自分の頭できちんと考え抜く人材のはずである。マニュアルどおり作業をこなすにあたっても、自分で企画立案を行うにしても、今後「自分の頭できちんと考え抜く」作業から逃れることはできない。このことは肝に銘じておくべきである。

では、モノを考えるためにはどうしたらよいか。以下の3つが思い浮かぶ。

  1. ていねいに問題設定を行う。
  2. 問題設定をもとにし、マクロ→ミクロの順番に、細部まで考え抜く。
  3. 考え抜かれた内容を、論理的に整然と並べる。

多くの場合、1番からコケている。今回もそうだった。これはたとえば、顧客のことをきちんと考えてプロダクトを作っているかという点に現れる。たとえば、ターゲットを「企画のことについて何も知らない大学生」としたとする。すると、顧客をそもそも「ほとんどなにも知らず、これからきちんと勉強する」と想定して、コンテンツを組むべきなのは当然だろう。だがいきなり、「ある程度物事を知っていて、すこしだけヒントを提示すればわかる」と想定してコンテンツを組んでしまうとコケる。1番を正しく設定できないと、企画そのものの満足度が下がり、大コケすることになりかねない。だから、慎重な問題設定はとても大切だ。

次に2番だが、これはデカルトのいうように、問題を細かく分割し、ひとつひとつ考えるというスタイルを大切にせよ、ということだ。だが、今回はどうだっただろうか。マクロレベルでの議論が長く続きすぎてしまっていたのではないだろうか。「具体」と「抽象」のレベルをきちんと見分けられるかが大きな勝負である。それができないと、いつまでたっても粒度の粗い状態のままだ。

考え抜かれた内容が整然と並べられないと何がおこるか。これができないと、人に伝わらないという状況に陥る。たとえばチームに意識を共有するとき、内容が理路整然と並べられていなければ、うまく伝えられない。理路整然と並んでいないと、言いたいことが支離滅裂としていて、聞き手は混乱するだけだ。もちろん、2番をきちんとやりきった段階で行うとなおよいので、そうするべきだが、しかし、多少細部まで詰まってなくとも理路整然ときちんと並べて伝えられれば、ある程度は伝わる。伝わらないということは、それができていないということだ。

「問題を真摯に考える作業」とはなにか。それは、これらのステップをていねいに踏むことだと私は思う。要するに問題を真摯に考えるということは、逃げないということだ。

今回思ったことはこのくらいだった。