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気まぐれに書評とか。

『それでも人生にイエスと言う』

1年ぶりくらいに、本作を読み返してみた。

フランクルといえば、代表作『夜と霧』で知られるように、第二次世界大戦期に、実際に強制労働収容所に収容された経験をもつユダヤ人精神科医である。収容所での壮絶な体験については、『夜と霧』に詳しく書かれている。

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wikipediaより

今回は、難しい話は抜きにして、フランクルの魅力などを語っていきたい。

第二次世界大戦を経験したユダヤ人の思想は、私は圧倒的な力と説得力をもっていると思う。以前、レヴィナスを読む機会があったが、ほかの思想に対して「それでは甘い、なぜなら私はこのような体験をしたからだ」という説得力があると思う。同様に、フランクルにも、同じようなパワーを感じる。極限状態に陥った人間のいうことは、どこか一歩も引けないような、そんな決意に満ちた何かをもっている。

『それでも人生にイエスと言う』という作品では、フランクルが「どんな極限状態にあったとしても、人生にイエスということができるか?」という問いに答える。先に答を書いてしまうと、フランクルは当然「イエス」と答えられるという。

生きることに意味はあるのか

しかし、フランクルは次のような問いは退ける。それは、「生きる意味があるか」という問いだ。この問いは、「自分の人生に何を期待できるか」という文章に変換できる。たしかに主体的で望ましい問いのように思えるが、彼は、それでは難しいという。強制収容所のような絶望的な状況下においては、もはや世界から何かを期待することが不可能だからである。「私はもはや人生から期待すべき何ものをも持っていない」(≒「生きる意味がない」)と語った人から順繰りに、倒れていったのである。

では、我々は何を考えるべきなのか。それは、考える対象のコペルニクス的転回をはかり、「われわれは人生から何を期待できるか」を考える必要があるのである。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはらなないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているのです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。

「生きる目的」「生きる意味」はどんどん多様化している。しかも、社会がそのような目標をある種要請している面もある。多様化している中で何かを選びとれ、というのはよほど強くなければ困難で、だから目標を見失って自殺に走ってしまう人もいる。

またこれは同時に、「答える責任」を自分自身で負うということにもつながる。重いように聞こえるけれど、責任に答えることで、ある意味生きる意味を見いだせるのだから、多少よりどころになる話である。すくなくとも、生きることに目的のなかった自分としては、非常に救われる話だった。私自身の経験でいけば、この作品を読んで以来、できる限り舞い込んできたチャンスをきちんと掴むことを心がけるようになった。「チャンス」は、私に意味を問いかけてきていると考えるためである。

世界に意味はあるのか

ところで、これを見ると、では「世界に意味はあるのか」という根本的な問いに向かいたい気分になってくる。そこで、彼はどう答えるか。この問題については、「大きくいって二つの考え方の可能性がある」としている。そのひとつは、「すべては結局まったく無意味だ」。そしてもうひとつは、「意味の全体がもはや捉えきれないほど、『世界は超意味*1をもつ』としかいえないほどの意味があるのだ」。

ただ彼は、これに関して、論理的に正しさを決定することは不可能であるといっている。なぜなら、「全体はそれ自信、もう見わたすことができない……。全体の意味は人間の理解能力を必然的に超えている」からだとする。「世界に意味はあるのか」という問いについては、読者に向けられた課題ではないだろうか。前者は少し唯物論的な印象を受ける一方で、後者はある種の神的な存在を背後に感じさせる。

◆ ◆ ◆

私自身は、「生きる目的」ということばは、社会学でも見かける通り、社会の要請によって「なければならない」と幻想させられているものの典型ではないかと考えている。

そもそも人間は生物である以上、他の生物と同じように、次世代の子孫を残すことが、唯一本来の「生きる目的」であって、それ以外に意味は存在しないと考える。こういったら元も子もない暴論かもしれないが、その無意味さに耐えられない人たちが、いわゆる自己啓発的な生き方探しをはじめるし、なかには探しきれずに自殺をしてしまう人まで現れてくる。

私は、フランクルの思想は『老子』の水のように生きるという話と近いのではないかと思う。生きる目的などといって武装せず、ありのままの自分で生きる。その中で、人生から問われる意味に丹念に答えていくことが、本当の強さを生み出すのではないだろうか。

*1:世界は「意味」を超えている、ということ