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気まぐれに書評とか。

なぜ本を読んでいるのだろうか

すっかり忘れていたが、11月3日に晴れて22歳になった。

去年は目標を立てて生きようとか思っていたけれど、最近はどうでもよくなってきている。というのも――聖書にもあったかなかったかは忘れたが――「おかれた場所で花咲く」というのが重要だと考えるようになったからである。

大学に入ってから、何度か「激動」とも言える環境の変化を経験した。それは、受験の際に地元を離れようという決断をしたときから、経験するに決まっていたことだったのだが、それにしても予想以上だったと思う。しかも劇的な変化とは突然やってくるもので、そのうえそれが、重大なチャンスだったりすることもある。自分の目標を言い訳に、そのチャンスに飛びつかないのもアホらしい。だから最近の自分は、目標なんて立てず、その場その場で結果を残すことを重視するようになっていると思う。

そういうわけで、22歳になったからといって特別計画を立てたりはしなかった。健康でいられればいいのではないか、ただそれだけだ。

思えば、21歳の自分は大量の本を読み込んだ。2月くらいから、猛烈に大量の本を読み込んでいる。最近では週に4、5冊のペースで読むようになっている。それだけ読んで何になるの?と聞かれることも多い。べつに、何にもならないと思う。すぐには。*1

21歳のとき、ひとつ気づいたことなのだが、私が尊敬する日本人は、だいたい60代だということだ。しかも人格的に尊敬する。60代は少し特殊である。彼らは大学時代に安保論争を経験している。60代を代表する知識人の誰もが口にすることなのだが、「安保論争があったから大学の授業がなかった」。だから、「自分で勉強した」のだそうだ。これは私の高校の担任の教師も言っていたし、有名所だと、池上彰氏やライフネット生命の出口氏も著書などで語っていることである。「それが今の自分に生きている」。

周りの大学生を見ていて思うことなのだけど、やたらにスキルを身につけたがる人がいる。彼らはそれで成長できると思っているのだと思う。私も、1年前くらいはスキルをとにかく身につけたかった。けれど、本当にそれでいいのか、という疑問を今では抱いている。

スキルを身につけることを否定するつもりはない。スキルもときに役立つことがある。学生団体を半年間運営するためには、リーダーシップ論や組織論を扱ったビジネス書を3冊くらい読んで実践すれば、簡単な話だろう。私もそうやってしのいだことがある。スキルは、一時的には有効なのだ。

けれど、たとえばある団体を継続的に2年も3年も運営するためには何が必要か。スキルだけでは当然無理だろう。一時的にリーダーシップ論を適当に学んだところで、それはその場しのぎにしかならない。リーダーは人から尊敬を受け、常に人を動かし続けなければならない。そのときに、人間的に薄っぺらかったらどうするのか。

人間的な薄っぺらさを脱するためには、やはりビジネス書の受け売りをしているだけではダメである。もっと根本的な、「信念」とかその人にしかないような「哲学」を持ち合わせなければならないのである。では、「信念」や「哲学」はどこから生まれるのか。それは、さまざまな思想に触れ、疑問を感じ、自分なりに格闘し、答えを出していくことで生まれてくるのではないかと私は考える。

それを考えるとやはり、歴史や哲学、人間心理といった「人間とは何か」を考える作業はとても有意義なものではないか。というのも、「人間とは何か」を考える作業には、とても難解で、若いうちには理解し難いような内容が含まれているからだ。こういった思想と正面切って格闘することで、人間的に豊かになっていき、さらには「人間ってなんだろう」をきちんと考えることにつながると思う。考えることで、自分の信念や哲学が生まれてくるのだと思う。

人間という存在はうつろいゆくものなように見えて、本質はあまり変わっていない。相変わらずバカな戦争は繰り返すし、権力闘争も大好きだ。今も昔も変わらず、かわいい女の人がいればその人が気になって仕方がないものだ。なにか新しいことを始めようと決意して3日後には、もうおじゃんになっている。とにかく、昔から人間はほとんど変わりがないのである。だから、根本的な部分を理解してしまえば、あとはなんとでもなる(かもしれない)。もっとも、根本を理解することは並大抵の作業ではない。

また、人間を知ることは、社会を知ることであり、深い理解をもって他人に接すれば、営業でも経営でもなんでもうまくいくんじゃないかとも思う。もちろん、これらは仮説でしかないけれど。

だがこれらは、大学をいったん出てしまうとなかなか深く勉強できるものではない。まず、読むのに時間がかかるからだ。そして、理解することにも時間がかかる。常にスピードと結果を求められるビジネスの環境において、この「時間がかかり、しかも結果が見えにくいこと」は圧倒的に致命傷だ。だから、社会人になったあとは、あまり時間をかけていられなくなるだろう。したがって、時間に余裕のある大学生のうちに、こういった時間のかかる作業をしておく必要があるのではないかと考えている。

だから、大量の本(しかも、一見するとおかためな)を読み込んでいるのだと思う。

多読は思考力を阻害する(もしくは、多読だけしたとことで思考力は伸びない)という声もある。しかし、本当だろうか。私は、知識なくして思考力なし、だと思っている。たとえば、ロジカルシンキングスキルだの、思考方法だの、そういうものだけ知っていても、肝心の考える種である知識がなければ、「何を考えるんですか」という話になるだろう。

また、人は自分の知識の中からしか、新しいものを生み出すことはできない。哲学者の営みを見てきてもそうではないだろうか。先代の哲学者たちの議論を使い、あるいは批判し、あるいはそれらを組み合わせて、新しい思想を組み上げる。だから、知ってる量を増やさなければ、新しいものを生み出せる幅も狭まってしまうのではないかと思っている。

ゆえに、思考力と読書量は比例する(はずである)。

もちろん、それはジャンルによる。ビジネス書の目的は、実際に内容が実生活にいかされることにある。読んでから実際に使ってみなければ意味がない。使うことが目的なので、思考力はあまり増大しない。

一方で、歴史書や哲学書などの目的は、人生を豊かにすることにある(といったら、怒られるだろうか)。読んでも直接使う場面が、日常ではほとんどない。役に立たないと言われても仕方がない。しかし、これらはなにかを考える材料になることはいうまでもないだろう。だから、頭の片隅にちょこっとおいておくだけでいいのではないか、という風に最近は思っている。

本を読むことだけを語ってしまったが、これだけが人をつくりあげるわけではないことは、語るまでもないだろう。長くなってしまったので、このあたりで終わらせることにしようと思う。

*1:ちなみに、私は速読の類を全くしない。読む本は、すべての行に目を通している。速読をしないのは、本は全体で理解するもので、一部を切り取って理解することは困難だからだ。全体→部分の理解はありえるが、部分→全体の理解はありえない。