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気まぐれに書評とか。

いくつかの本の書評

3冊ほど本を読んだので、簡単に書評しておこうと思う。

【『科学的とはどういう意味か』森博嗣

3.11の原発事故で沸き立つ世の中を見て疑問をもった筆者が、世の中の大騒ぎの「しかた」を批判する本であった。

「科学的」というのは勘違いをうけやすい言葉のひとつである。日本では「非感情的」「冷たい」という印象をもたれやすい。だが、科学的思考は、できなければ大損を被る可能性もある。ゆえに筆者は、できるできないの問題ではなくて、「しないと危険」ですらあると喝破する。

たしかに、近年では統計リテラシーの重要性が叫ばれはじめている。今年の出版ブームでもあろう「統計リテラシー」ブームには、3.11の悲惨な報道状況に加え、マスコミにだまされまいという消費者の意志も含まれているのであろう。平均値のワナがわかるかは、統計リテラシーをもっているかもっていないかのひとつの指標であろう。平均値にいつまでもだまされていることは「危険」ですらある。それに加え、少し調べればわかることを調べない人が多いという点で、日本人の多くは思考停止している可能性がある。私もそういう節があるし、本書を読みながら猛省させられた。

で、科学的とは結局何なのだろうか。私なりに解釈をするとそれは、「ちょっと立ち止まって考えてみる」ということではないだろうか。文系の人が数学を「見た瞬間に」嫌がるというのは、「ちょっと立ち止まって考えてみる」という行為を拒否しているということだ。また、原発事故を受けて、多くの人(TVアナウンサーがあがっていたが)が放射線のことや放射能のことについて、ほとんど無知にもかかわらずそれを調べようとさえしないこともまた、「ちょっと立ち止まって考えてみる」行為を拒否していると考えられる。つまり、多くの人が「思考停止」に陥っていることを、筆者は問題に思い、それを警告するためにこの本を書いたのではないだろうか。

科学を敬遠するのは、自分で考えること、感じることが面倒でしたくないからである。その多くは、無意識のうちに処理される。人間は、面倒なことを知らず知らず避けるからだ。誰だって、楽な方が良いと感じる。当然の指向である。だから、これを意識して、ときどき注意をして、少しだけ目を留める必要がある。それだけでだいぶ違ってくる。

『科学的であるとはどういう意味か』

面倒くさがらず、自分の頭で考えて生きなければ、大損を被ることになりそうだ。

【『デフレの正体』藻谷浩介】

 日本の停滞の理由はズバリ、生産年齢人口の減少にある。そう筆者は主張する。本文中の言葉を借りてあえて、タイトルにツッコミを入れようと思う。「生産年齢人口の減少は、デフレの必要条件ではあるけれど、十分条件ではない」。もっとも、この本のタイトルに目が行きすぎて、少し誤読をしたと感じられるレビューも多いのが本書であろう。全体的には私にとって非常に勉強になる論考であった。

生産年齢人口の減少がもたらす弊害はさまざまにあるが、生産年齢人口の減少→労働力の減少→生産力の減少というロジックはひとつ、成り立つであろう。生産年齢人口が減少してなにもいいことはない。しかし、生産年齢人口を仮に増やせたからといって、日本の大問題がすべて解決するというわけでもない。

日本の大問題は、「ほとんど消費をしない高齢者の増加」である。高齢者は、もうモノを購買する意欲がほとんどないので、消費量も期待できない。彼らから購買意欲を積極的に引き出さなければ、絶対数が多いがゆえに、仮に若い人たちを増やせたとしても太刀打ちできない。移民政策もそういった意味でまず根本的な解決策にはならないのである。

経営戦略でも「ボトルネックへの対処」は重要視されるのだが、この「高齢者の増加」という「ボトルネック」にまずは対処しなければ、問題を解決に向かわせることは困難である。

【『サンデル教授の対話術』マイケル・サンデル、小林正弥】

本書の帯に書いてある、こんな一言が目についた。

最高の教育とは、自分自身でいかに考えるかを学ぶことである。

現在の大学教育は、果たしてこの力を養うことができているのであろうか?

そしてまた、次に印象に残ったことは、ハーバード大学の学生の優秀さは何に由来するのだろうか、という点だった。基礎学力の優秀さも当然あるのだろうが、本書ではもうひとつ、ほかとは違う気力と決意をもっていると語られていた。世界を変える可能性のある学生を、ハーバードは入学させているのだという。東大生にはなくてハーバード生にはあるもの、それは行動力ではないだろうか。

対話型講義について言えば、私自身も小林教授の授業を受け、またゼミも受講しているのだが、あれは相当賢くなければできないと思っている。だから、普通の教員が導入するのは至難の業なのである。まして教育学部で文系卒の人間が大多数を占めるであろう、教員の世界において、これをこなすことができる人材は何人いるのだろうか。たしかに対話型講義を行い、グループワークを行い、そうして生徒の創造性を伸ばすことは理想的であるが、まずもって教員のレベルが追いついていないため、中途半端に終わるかそもそもできないかのどちらかに終始するだろう。

また、茂木健一郎さんが昨日テレビで、「尖った奴ら」が偏差値主義によって東京大学に入学してこないことは不幸だと語っていたり、今日の日経新聞にもあったように、偏差値教育への疑問から人物評価を中心にしようという風潮が見えはじめていることに、私は懸念を覚える。基礎学力のある人間は、やはり人物的にも優れていると思う。人物評価だけをすればいいというものではない。人物評価の比重を高める、ということであればそれは合意できる。しかし、多くの言説は基礎学力の拡充を否定しはじめているように感じられる。

サンデル教授が語る通り、ハーバードに来るような学生はやはり、学力面でも非常にレベルが高いのだ。高校生のうちに基礎学力で優秀な成績をおさめ、加えてさらにそこから生まれる余裕によって課外活動に取り組み、そこで実績をあげたようなスーパーマンが入学するのが、ハーバードではないだろうか。となると、単に「尖っているだけ」の人間が東京大学に入学できるかというと、そのようなはずはない。

偏差値主義についてはいろいろ言われることはあるけれど、あくまで、「学力だけを基準に合否をはかる現行入試では、おもしろい個性をつぶすかもしれない」ことが問題なのであって、「個性的なだけで学力のない人間」を入学しやすくするということではない。だが、そこを勘違いした受験生が増え、高校生がひたすら変な活動に没頭するようになりはじめそうだと、昨日の茂木健一郎さんの講義を見ながら感じた。