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気まぐれに書評とか。

【書評】『プロタゴラス』

古典は読者の頭をフル回転させる。文字通り、「本と格闘する」。本と格闘するとはまさに「脳に汗をかく」感覚をいうのだと思う。とくにプラトンの作品はストーリーを追いかけやすいため、読者は文字をいたずらに精読する必要がない。その浮いた分、読みながら思考することに時間をかけられるのだ。その点で、プラトンアリストテレスよりも優れた能力をもっていたのではないかと私は推察する。

本書では、ソクラテスは「徳は教えられるものではない」という前提から出発し、プロタゴラスと対話をはじめる。ところが、対話を進めるうちに、いつの間にか「徳は知恵である」という結論が導かれてしまう。「徳が知恵である」ということは、それは「徳は教えられるものである」と唱えていることと同じである。だから、ソクラテスは自分で矛盾した結論を導いてしまったわけだ。

そして今回もまた、本書を書いたプラトンは、先日紹介した『メノン』と同様に結論と答えを書いてくれていない。ソクラテスはもう一度対話しようと呼びかけるが、プロタゴラスは嫌になってそっぽを向いて帰ってしまった。相変わらず物足りないと感じた私だったが、この姿勢は間違いなのだと、あとで「解説」を読んで気づかされた。要するにプラトンは読者に向かって哲学的な対話をしようとしていたのだ。まさに、「徳は教えられるのかい?ちょっと一緒に考えてみようじゃないか」と、プラトンが微笑みながらこちらに語りかけてくる光景が目に浮かぶよう。

ところで、ギリシア語でアレテーというのは日本語で「徳」と訳されている。しかしこれは儒教的な意味での「徳」ではなく、どちらかというと「人間としての善」ということばや、「よく生きる」「卓越性」などと訳される通り、日本語や儒教的な徳とは少し異なっている。この点に注意して「徳」について考えてみよう。

これが教えられるかというと、おそらく私は部分的には教えられるが、部分的には教えられないという立場をとると思う。というのも、「よく生きなさいよ」と抽象的に教えることは簡単にできるけれど、では何が「よく生きる」ことにつながるのか、「よく生きる」とはどういうことなのかは、個々人によって判断の分かれるところで教えられないからだ。このことはひとりひとりが内省して導き出すべきであり、したがって他者が教え導くことはできないと思う。

ただし、ここに『メノン』的な問い(=「徳とは何か」)をさらに追加すると、もはや以上のロジックと前提は成り立たなくなる。堂々巡りだ。しかし、これがプラトンの狙いだと私は思う。ソクラテス以来のギリシアの思索活動はこの「前提を疑う」という問答法(ディアレクティケー)によって支えられてきたからだ。またプラトンにやられた、と思った。

そして、このようなギリシア伝統のこの問答法は、現代でもどんどん生かされていくべきだと私は思っている。現代は、あらゆる前提を疑ってみるべきフェーズにやってきている。本当に民主主義は正しいのか、資本主義はすばらしい制度なのか、他に代替案がないのかなどということは、常日ごろ身近な問題として考え続けたいと思う。

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