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気まぐれに書評とか。

【書評】『カント--世界の限界を経験することは可能か』

カント入門。実は現象学で挫折し、一度カントに戻って哲学の流れをチェックする必要があると考え、読んでみた。

カントについては『啓蒙とは何か』をはじめとして、『実践理性批判』ならば読んだことがある。『啓蒙とは何か』は、以下の一節があることでも有名ではないだろうか。

啓蒙とは何か。それは、人間が未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。

『啓蒙とは何か』(光文社古典新訳文庫, p.10)

いわゆる「三批判書」について、『実践理性批判』は倫理学とかかわるようなテーマであり、高校の倫理の授業でも多少耳にしたことのある単語(”格率”、”人格”、”自律”など)も多いため、読みやすい。サンデルの本でもとりあげられていた。登場する回数も多いし、解説する人も多いために、むしろ現代人にはカントといえば『実践理性批判』のカントのイメージの方が強いかもしれない。彼の真に意図するところを正確に理解できているかどうかは別として。

けれど、のこりのふたつ『純粋理性批判』と『判断力批判』は、読むには難しいと思う。一度本を開いてみたけれど、カントの文才のなさ(こういったらカント主義者に怒られるか)と、考えの深さに圧倒されてまったく読み進められない。字面をおうことはできるけれど、頭に入ってこない。そんな感覚を味わわされる。

純粋理性批判などが扱う話題は、神は存在するのかといったことや、そもそもこの世界とは何かといった境界線がよくわからないことがらについてだろう(読み通したことがないのでわからない)。むずかしいことばで書くならば、「形而上学」というものである。

たとえば、ビッグバンが起こる前はなにが存在していたかといった疑問や、宇宙に境界があるあのかということも、純粋理性批判に書かれていることを参考にすれば少しはわかるかもしれない。 

たとえば部屋は壁によって囲まれており、壁がその部屋の「限界」である。壁が境界であることを私が知っているのは、私が、部屋のそとに出て、壁を向こう側から見ることもできるからだ。つまり、私が部屋のうちにもそとにも存在することができ、私にとって、部屋の内部の経験も、部屋の外部の経験もともに可能になっているからである。部屋のなかも、部屋のそとも、「空虚な経験」ではない。部屋のなかで私は椅子や机を見、部屋のそとのは廊下がひろがっているだろう。壁という境界が境界として経験されるのは、部屋の外部について可能な経験が存在することに依存している。

これをもとにして宇宙の境界について考えてみる。宇宙の内側は、私たちがいる世界であるから、おおざっぱになるけれど経験可能である。しかし、宇宙の外側は、人間では経験不可能である。ということは、本書の引用を用いれば、宇宙に境界は存在しないことになる。

ところで、この手の本によくある時間と空間とはなんぞや?という話も掲載されていた。

空間と時間は「だんじて、なんらかの物自体の性質ではなく」、「それだけで存立するであろうような、なにものかではない」。ひとが外的現象や内的現象を「直観」するさいの、主体のがわの条件をすべて取りのぞいてもなお残存するような或るもの、ではないのである。時空は「いっさいの現象のたんなる形式」である。つまり、そのもとでだけ「直観」が可能となるような、したがってまた対象との関係がなりたつような、「完成の主観的な条件」であるにすぎない。

これは自分の時間に対する考え方と似ていると感じた。私は時間を、結局は人間の主観でしかなりたたない、人間の思考の枠組みでしかないと考えていた。この記述がカントの著作の中に本当にあるとするならば、自分の頭は少しだけカントに近いのかなとも考えられる。(それに加え、実践理性批判は結構好きな本である。自分はカント主義者になりかかっているのかもしれない。)

時計の針は、結局のところ便宜的に表現された形式にすぎない。時間は離散的に流れるのではなく、連続的に流れるもののはずである。連続性を表現できていない以上は、「時間」ということばは創造物あるいは便宜にすぎない。*1

だが、「自分がカントに似ているな」と考えれば考えるほど、「自分がカントの思考回路と似たような思考回路を持っている」のか、「そもそもカントの思想が偉大すぎて世の中に浸透しすぎ、今までの教育によってカントの思想が暗に染み付いてしまった」のかはわからない。「思考回路」か「思想」か、どちらが先に存在し、それに基づいて思考したのかますますわからなくなる。

無限なもの自体は、自然のうちに現前しない。経験の対象となる自然の事物としては現前しない。第一章で第一アンティノミーに関連して見ておいたように、無限なものが経験の所与となること、感性の対象として与えられることそのものが矛盾である。それは無限なものが完結していること、すなわち(空間的に、あるいは時間的に)境界を有することを意味するからである。第一アンティノミーのテーゼの証明は「流れ去った無限の時間」が不可能であること、それが現在において完結していると考えるのは矛盾であることを示していた。にもかかわらず、理性は「無限なもの」を与えられたもの」として「総体性」として思考することを要求する。「空間と流れ去った時間」をも完結したものと考えることを要求している。――その意味で、無限なものは(直観の対象でも構想力のとらえられうるものでもなく)理性の「理念」にほかならない。

世界の限界は、認識することはできるけれど経験することはできない。本書をひとことでまとめるとしたらこうなるだろうか。

大まかなカントの思想の流れを知ることができたという点で、本書はもう役割を果たしてくれた。

*1:これはカントはおそらく主張していないが。

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