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気まぐれに書評とか。

ペットを捕まえようとすると逃げるところから、「心」を考える! ―ダニエル・デネット『心はどこにあるのか』

完全に消化不良ですが、一応読んだってことで書評を書きます。完全に消化不良につき、勘違いしている箇所もあるかもしれませんがご容赦ください。哲学書はつねに「んんん?」からはじまり、「んんん?」で終わるのが常ですね。デネットも本書の最後で、「本書は多くの疑問からはじまり、哲学書のつねとして、答えのないまま終わる」と言っているので、このモヤモヤした感じは正しいみたいです(笑)。

とりあえずメモしておきたいことがひとつだけあるのでメモ。

「志向的な構え」によって心を探究する

いきなり謎用語を出しましたが、デネットの本や論文を読むと結構登場する用語です。あらためて。

志向的な構えとは、(人間、動物、人工物を問わず)ある対象の行動について、その実体を、「信念」や「欲求」を考慮して、主体的に「活動」を「選択」する合理的な活動体と見なして解釈するという方策である。

志向的な構えの基本的な手順は、対象を主体と見なすことによって、その行為や動作を予測し、そのような予測を利用して、行為や動作をある意味において説明するというものである。

志向的な構えの要点は、行為の対象を理解するためにそれを主体としてとらえることである。さて、もしそうだとすれば、それは「賢い」主体のはずである。愚かな主体は愚かなことしかしないからだ。そこで、主体は(その観点がかぎられている以上は)もっとも件名と思われる動きしか取らないと大胆に飛躍して想定することができるだろう。そこで、限定された観点を記述するために、わたしたちは、主体が、なにを知覚しどのような目標と欲求をもつかということを基礎として、特定の信念や欲求を持つと考える。

どういうことかをデネットはあんまり詳しく述べてくれてはいないので、一体どういうことかを正確に捉えるのは結構難しいかもしれませんが、ひとつ考えてみることにします。

たとえば、自宅のペットを病院に連れて行くために捕まえる必要があるとします。そのとき、ペットは飼い主に「捕まってなるものか」という信念を持って「逃げよう」とするものとします。そうしたとき、人間は「きっとペットは捕まってなるものかという目標をもって動くだろう、だから、こういう感じで追い詰めて・・・」ということを反射的にしていると思います。それが志向的構えなのかな?と思います。

一方で、この志向的構えによって捉えられないものはすべて、心を持たないということになります。たしかにそうかもしれません。若干荒削りな理論な気もしますが、結構有効なんじゃないでしょうか。

そして、この話に従うと、アルファ碁などのコンピュータシステムも心を持ちうる、ということになると思います。というのも、アルファ碁は、「相手に勝ちたい」という信念を持って、最善手で相手を倒すという合理的な行動を取る存在だからです。これは志向的な構えのいう、「主体」そのものです。そして、その主体には当然心が宿っている可能性があります。

んんん、でも、心ってそんな単純に定義できるの?というと正直難しいと思います。たしかに志向的な構えを使ってコンピュータを捉えると「心があるらしい」というところまでは言えると思いますが、人間や動物の持つ心と同じなの?と言われると、微妙に違うんじゃないかな、と思うんですよね。

デネットが別の著作(『思考の技法』)で語っていた概念があります。「準・○○する」という概念です。コンピュータができるのは結局「準・○○すること」が限界だと思います。アルファ碁も結局「準・判断する」「準・理解する」というところまでは行っていますが、人間と同じ「判断すること」「理解すること」を行っているかというとそうではないです。アルファ碁を始めとするコンピュータを構築するアルゴリズムは結局、処理手順に過ぎないからです。そこから「準」の修飾子が取り払われるにはまた別の要素が必要になるのではないでしょうか。

疑問とモヤモヤが残りましたし、デネットは毎回話が長くて(笑)、本書のすべてを理解しきれたとは思いませんでした。でも、一応思ったことをメモしておくということで。

心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)

心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)

心の社会

心の社会

私たちに「意識」はないのかもしれない?―デイヴィッド・イーグルマン『あなたの知らない脳―意識は傍観者である』

最近はずっと心の哲学を勉強していました。仕事で使うというわけではないのですが、機械学習について最近は勉強をしていて、ふと「人工知能っていったい哲学的にどう考えられるんだろう?」と疑問に思ったのがきっかけでした。それで、心の哲学の本を読んでみたんですが、どうも思考実験的な色が強くて納得がいかなかった。そこで、ちょっと脳科学の本を読んでみることにしました。

何かが自分の中心にいるかもしれない―これが「意識」なる存在を想定するような発想に至ります。多くの人は、「意識を失った」なんていうくらいですから、自分のなかに一つの核となる「意識」(自我ともいう?)を持っていると考えていると思います。しかし、イーグルマンはそれについてNOというわけです。

なぜそういえるかというと、私たちは、日常生活のほとんどを実は「意識しないこと」=「無意識」に頼って過ごしているからです。私たちはキーボードを、自分の指が次どう動くかをまったく意識することなく打つことができます。また、自分の視覚に入ったほとんどのものを「見る」ことはなく、ある一点に集中して「見る」ということしかできません(これが交通事故などの悲劇を生みます)。

そしてなんと、私たちはその「無意識」に対するアクセス権ももっていないようです。つまり、自分が無意識に何かをやっている、ということはわかるけれど、肝心の「無意識」が何か?についてはよくわからないということ!な、なんだってー!?しかも、その無意識が悪さをいろいろしてくれるから、錯覚とかが生まれてしまうのだといいます。無意識、案外めんどくさい奴ですね・・・。

結局のところ、私たちは「外に」あるものをほとんど自覚していない。脳が時間と資源を節約する憶測を立てて、必要な場合にだけ世界を見るようにしている。

人の行動は説明不可能だから法律でも裁けない(かもしれない)

私たちの行動の大半は「なぜそうしたかわからない」によって成り立っています。と考えたときに困ってくるのが、「もし犯罪を犯してしまったらどうするか?」ということです。その人が故意にやったかどうかは正直口頭ベースで判断することが多いですし、この世界観に立つとそもそも人が「故意に何かをする」という確率がとても低い、ということになってしまう。こうなってくると、法律や倫理観の正当性が担保されなくなってきてしまいます。

法律や倫理は、人間の自由意志というものを最大限に尊重しています。人は何かをする自由を有しているし、またその意思ももっている。その過程のもとで、じゃあこれは最低限許せるけど、ここから先は許せないよね、社会バランスを崩しちゃうよねという絶妙な線引を行っています。

しかし、私たちの行動の大半が「なぜそうしたかわからない」=「無意識」によって成り立っているとしたらどうでしょうか。自由意志があるといえるのは、結局その人が「なぜそうしたか」説明できるから成り立つのです。しかし、それができないとなると、自由意志という概念の有効性がそもそも怪しくなってきます。ということは当然、法律や倫理の正当性も怪しくなってくると言えるのではないでしょうか?

と思ったところで本書を読み直してみたのですが、本の中では「自由意志の問題と、その答えは重要ではない」的な節があります。ということは、自由意思の問題はあまり考えなくてもいいらしいです。というか、筆者自身、「法律はすでにすべての脳が平等につくられているのではないことを認めている」と言っています。「問題は、現行の法律がおおざっぱな区分を利用していることだ」と筆者はむしろ言います。もっと個別事案に丁寧に対応すべきだ、というのが筆者の主張です。

なるほど、たしかにそう言われるとそうしなきゃいけないのかなっていう気持ちになってきますが、でも現実的に裁判の手間を考えるとこの手の話は結構難しいと思います。1回の裁判で下手をしたら数年かかるのに、数年間裁判官が一人の個別事案のために頭をウンウン悩ませる姿を想像することは難しいです。

もちろん筆者は実運用性について論じたいわけではなく、もっとも重要なのはその人をどうしたら修正可能だろうか?という観点に基づいて法律を制定することだと言っています。要するに今の法律は、「君、これをしたよね。はいダメ。刑罰はこれ」みたいな感じで裁こうとしますが、そうではなくて、「君、これをしちゃったけど、君の脳を調べたらこうこうこういう特徴があって、だからこういうリハビリが必要だよね」という観点から「処置」を下すことをしようと筆者は言います。これ、いいかもしれない。

意識ってそもそもあるの?という話を考えていたら、いつの間にか倫理の話に・・・

トロッコ問題の話とか出て来るあたり、大学の専攻が政治哲学だった私としてはこの手の話を論じずにはいられません。カントの義務論が・・・と口走りそうになりますが、筆者はNOといいます。神経科学の観点から見ろ、と。新しい視点を手に入れられたかなと思います。

ちなみに私自身は意識をどう捉えているかというと、現象学の純粋意識みたいなものと、ドゥルーズリゾームあたりを組み合わせ、コネクトームの話をゴニョゴニョ織り交ぜたような感じで考えています。ようするに自分の中心みたいなものは存在するけれど、それはニューロンの組み合わせでしか存在しておらず、自分の核みたいなものはない、という立場です。この立場を取る人がいるのかどうかは知りませんが、今この考え方が一番納得行くかな・・・なんて思っています。

機械学習のお勉強を進めていくうちに考え方が変わっているかもしれませんが。

あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

人口減少は武器かもしれない?――『武器としての人口減少社会』

この手の本は本当に久しぶりに読んだのですが、とある読書会に参加するきっかけを得たので読んでみました。読書会では非常に有意義な意見交換ができたと思います。社会人になってからやる読書会は新鮮ですね。

ニュースを見ていると、「経済成長率の鈍化が」とか、「人口が減少してこの先は(お先真っ暗だ)」とか、そういう話がとても目立ちます。だからニュースを普段見る私たちはうすうす「もう日本はおしまいなのかな・・・」などと思ってしまいがちなのですが、まだ諦めるのは早い!と励ましの手を差し伸べるのが本書です。

日本経済はこれまで長らく「量」で稼ぐ経済モデルでした。しかし、だんだんと時代も移り、人口が減ってくる未来が現実味を帯びてきました。そこで必要な転換は「質」で稼ぐ経済モデルへの転換なのだと筆者は主張します。質で稼ぐとは、具体的には労働生産性を向上させるということです。

労働生産性を向上させるためには、これまで「定型業務」と言われてきた業務の比率を、移民やAIなどに任せるなどして減らし、「非定型業務」と言われる業務の割合を増やしていくことで利益率と収益率を高める必要があります。「非定型業務」はクリエイティブな業務と言い換えればいいでしょうか。デザインや企画提案などがそれに当たります。

ただ、「非定型業務」には高度な知能が必要です。なぜなら、これらの業務は今までの定型業務より頭を使う業務だからです。したがって、定型業務にもともといた人たちが、非定型業務に移ることは現実的に可能なのか、という問題があります。これはできるのでしょうか?

筆者によれば、それは可能なのだといいます。なぜなら、日本人の数的処理能力あるいは読解力は世界の中でもトップクラスだからです。つまり、知能が高いということです。しかし、日本は終身雇用システムや女性活用の不備といった状況によって、貴重な人材を大幅に持て余しています。これらの人材を活用する施策を打つことで、日本経済はまだまだ浮上可能です。

ところで、労働生産性を考える際に必ず上がってくるのが「イノベーション」という言葉です。これは非定型業務に携わる人間が最終的に目指す目標とも言えるものです。しかし、本書の中で扱われているイノベーションに対する施策は少し的はずれかもしれないと私は思いました。

本書では、労働生産性を向上したり、女性活躍推進を行うこと、さらには企業家精神の教育を早期から入れておくことなどを提案しています。しかし、どれも効果が限定的だろうなと思います。

少しイノベーションについて考えていきましょう。

まず、イノベーションは特許申請数で測れます。したがって、特許申請数に着目して議論をします。特許申請数は、アメリカが群を抜いて高く、次に日本・韓国・中国・ドイツなどが並びます。最近まで日本も奮闘していますが、しかし右肩下がりになっています。一方で中国は特許申請が爆発的な伸びを見せています。

なぜ、アメリカと中国は今になっても特許申請数が伸び続けているのでしょうか。それを解き明かすのは私は、本書の158ページに掲載されている「学術研究における国際ネットワーク図」だと思います。この図は、共著の論文の国別の関わり合いの深さを示しています。その2012年の図において、米国を中心としてみると中国の結びつきが最近では強くなっているようです。一方で、日本と米国との結びつきはあまり強くは見られないようです*1

ここからわかるように、とにかく他の国と協力しながら新製品開発を進める環境を早く日本に整えない限り、日本のイノベーションがより活発になるとは思えません。何かシリコンバレーみたいな企業特区を作って、そこに各国の企業や人材をどんどん入れ込むことによってしか、イノベーションは起こせないのではないでしょうか。イノベーションは知の集積によってしか起こり得ないのですから。

実際、私の会社でもイノベーションを今起こそうとしていますが、やっていることは外資系銀行で活躍していた外国人をたくさん会社に呼ぶことです。そこから思うに、イノベーションというのはやはり多様な人材が知識を寄せ集めてこそ起きるものだということです。

この点において、筆者の想定は少し甘いかもしれないと思いました。

本書から感じるエリート主義の危うさ

ここまで色々書いてきましたが、本書を読んで私が正直に感じたことはひとつです。エリート主義、です。エリートはそれでもいいかもしれないけど、みんながみんな起業したいとは思ってないし、女性もみんながみんなバリバリ働きたいとは思っていないということです。そして、そう思っている人たちが世の中の大多数であり、筆者のような意見はわりと少数派かもしれないということの自覚がもう少し必要なのでは?と読んでいて率直に感じました。

*1:改めて図を見直して思ったのですが、英国・カナダ・ドイツも結びつきが強いです。一方で、カナダは市場にそこまで新商品をもたらしてはいないようですし、特許数も少ないです。一概には言えないかもしれないけど、国際共著の論文を書くことが多い国は、イノベーションを起こしやすい環境が整っている傾向にあるといえると思ったので載せています

考えるな、感じろ――『反解釈』

少しお固めの本をいきましょう。最近Twitterでおもしろいツイートが流れてきて、そういえばこの話、ソンタグが昔似たようなことを言っていた気がすると思い出して、改めてこの評論を読み直してみました。『反解釈』です。

いや、改めてツイートを読み返して思ったけれど、やはり違うかもしれない。でも、読み返したしせっかくなので書評しておきます。

反解釈の大まかな流れとしては、「作品の意図を考えるな、感じろ」というものです。ソンタグは、古代ギリシャ以降、ヨーロッパには芸術作品の「形式」よりも「内容」を重視する傾向が生まれてしまったといいます。昔はただ単に像などを作っていたけれど、徐々に「この像にはこういう意味があって、この部分はこういう意図で作っていて…」ということを重視し始めてしまった、ということです。たしかにそのような傾向は認められますよね。

ヨーロッパ人の芸術意識や芸術論はすべて、ギリシアの模倣説あるいは描写説によって囲われた土俵のなかにとどまってきた。この説によれば、必然的に、芸術というもの自体が――個々の作品をこえて――疑わしいもの、弁護と必要とするなにものかにならざるをえない。この弁護の結果、奇妙な見解が生じてくる。すなわち、あるものを「形式」と呼びならわし、またあるものを「内容」と呼びならわして、前者を後者から分離するのだ。そして、いとも善意にみちた動機にしたがって、内容こそ本質的、形式はつけたしであると見なすという次第だ。

こうして、芸術(いや、あるいはその他のさまざまなものを)「解釈する」という試みが始まってしまうことになります。ソンタグのいう解釈とは、「自覚的に精神を作用させて、ある一定の解釈の法則、ルールを例証すること」を意味しています。要するに、自分の思考のフレームにはめ込んで作品を解釈してやろうという試み、といったところでしょうか。

解釈は絶対的な価値をもったものではありませんが、しかし「思考の枠にはめる」行為である以上、「別の似た何か」を追い求める作業にほかなりません。芸術作品に解釈を当てはめるとはそういうことです。つまり、芸術作品を自分たちの実体や生活と紐付けて、なんとか自分たちに関連付けようとする作業、ということです。しかしこれは、芸術作品本来の姿でしょうか。私はそうは思いません。

なぜなら、芸術作品というのはやはり、人間が考えつかないようなことを生み出す作物であってほしいからです。というか、作者たちはおそらくそのつもりで作っているでしょう。しかし、周囲の人間が「解釈」という行為を行ってしまうことで、新奇性が一切なくなり、その芸術作品はのっぺらぼうな姿へと変貌してしまう。これが昨今の芸術作品の批評の問題点だ、とソンタグは言います。私もそうだと思います。

当然、芸術作品を作る作者たちもそのことに気づき、そうして芸術作品はどんどん抽象化を遂げていきました。いい例が現代アートでしょう。現代アートを見ていると、ときどき見るものの思考を停止させてしまうような抽象度を持ったものが現れます――「これはなんだ」と見るものに思わせるような作品たちです。しかしそれこそが、作者の狙いなのでしょう。

同じことが、じつは現代思想にも言えるのではないか、と個人的には思います。ポストモダンの類のものですが、それらの思想を担った書物は往々にして抽象度が高く、いかようにも解釈でき、また一意に意味の定まらない文体で書かれています。これは、それを書いた著者が解釈を嫌ったからにほかならないのではないでしょうか。「俺の考えは、そう簡単に言葉で表せるものではない。ああでもないこうでもない…」という感じ。これが、ポストモダン思想には流れているように思います。

人生論として読んでみるのもありかもしれない

人間は、「意図」「目標」などを定めようとしすぎてしまっているのかもしれません。いい例が「生きる意味」でしょう。そもそもこの世の中に生きる意味は一つなのか?そうではないでしょう。であれば、ソンタグの言うとおり、「もっと感じろ」というのが正解になりそうです。もっと、人生を素直に楽しむようにしたら、きっと「生きる意味」なんてものは考えなくなるかもしれません。

ソンタグのこの批評は、仕事の現場などで生きづらさを感じている人たちへのエールになるかもしれません。その仕事に確かに意味はないし目標もないかもしれない。でも、純粋に没頭して楽しむことは、その人の心持次第でどうにでもなる。それこそが、今の時代に求められている芸術作品あるいは人生の「愉しみ方」なのかもしれません。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

女ごころは残酷だ――『女ごころ』

サマセット・モームにハマって第三弾を読んでみました。『女ごころ』という作品。この本は、ページ数が少なくすぐに読み終えられるので、モーム入門にはいいかもしれません。

女ごころ (ちくま文庫)

女ごころ (ちくま文庫)

主人公はイギリス出身の貴族階級の女性。現在はイタリアに住んでおり、エドガーという男性からプロポーズを受けます。この男性、近々インドの提督になることを約束されたすばらしい男性ですが、歳が20歳上。昔から主人公の女性のことを知っていて、少女の頃から彼女を愛していたそうです。長年の恋、ようやく実ったといったところでしょう。

ただ、エドガーからプロポーズを受けたとき、返事を渋ってしまいます。2、3日待ってからもう一度返事をすると言って、一旦彼との今後を考えることにしました。そんななか、晩に参加したパーティーで事件が起こります。チャラくて浮気性の男(と噂されていた)ロウリー、さらにそのパーティーにたまたま招かれていた下手なヴァイオリン弾きであるカールと出会うことになりました。

途中からロウリーに口説かれ始め、車に乗って少しドライブしたところでやっぱりロウリーが気に入らず、いったん自分の家に引き返す途中でヴァイオリン弾きのカールと出会います。そこからカールを自分の家に引き込み、話をしているうちにカールに惹かれ、カールとワンナイトラブを過ごしたところで事件は急展開。カールが主人公との永遠の関係を迫りますが、主人公にその気はなく、カールはなんとその晩に彼女の部屋で自殺してしまいます。ここまで、経過した時間を想像すると半日も経っていない。プロポーズを受けてから12時間くらいと言ったところでしょうか。

その後、カールの遺体を巡って主人公はほんとうにどうしようかわからなくなってしまいます。遺体を隠すべきか?それとも、知らない男を家に招き入れたことを白状するか?迷ったとき、ロウリーの存在を思い出します。そして、ロウリーに連絡を入れてしまう。

で、ここからロウリー登場であとはわかりますね。女としてはやはり、捨てられるとわかっていても、傷つけられるとわかっていても、危険な男性を求めてしまうということがよく描かれています。

『女ごころ』というタイトルですが、男ごころについてもなかなか深い洞察があって、とくに次のロウリーのセリフが好きだなと個人的には思いました。

知るかぎり、僕が自由にできる人生はこの一回だけ。とっても気に入っているよ。折角与えられた機会を活かさなかったら、それほどバカなことはないじゃないか。僕は女が好きだし、不思議なことに、向こうも僕を好きらしい。僕は若いし、若さなんていつまでもあるものじゃない。機会が与えられている間に、できるだけいい思いをして何が悪い?

このセリフからもわかるように、ロウリーは、噂では浮気性で何も考えない男などと言われてみましたが、実は意外に冷静で策略家で思慮深く、そこに主人公は惹かれてしまったのでしょう。最後、結局エドガーとは婚約することなく、ロウリーと人生をともにすることを選びました。

サマセット・モームの魅力

いったいモームのどこがおもしろいんだ、と言われるとなかなか難しいです。今回の『女ごころ』も、正直時代が違いすぎますし(なんてたっておそらく60〜70年前のイタリアが舞台ですから)、日本とヨーロッパとでは文化も違いすぎます。そもそも夜にパーティーなんてそう頻繁にこの国ではやりませんしね。貴族階級なるものも、とうの昔になくなってしまっています。

が、人間の本質って文化によらずどこか変わらないところがあって、心を許してしまった相手であればやすやすと部屋に招き入れてしまいますし、その後どうなるかを考えずに勢いと思いつきで行動してしまうところもまた、文化の差ではなく人間の本質なのかもしれません。そういった人間ってこういうところあるよね、がふんだんに作品内に散りばめられているのがモームの魅力なのかも、と個人的には思います。

大女優はこういう恋愛をする

サマセット・モームにハマって、短編集を読み、その次に『劇場』という本を偶然近くのブックオフで発見し、読んでみました。ブックオフで買った際にこの本に新聞の切り抜きが挟まっていて、その記事に『劇場』の映画の話が書いてあって、とても興味をそそられ買いました。

まず結論からいうと、これは映画になって然るべき作品で、映画にしてもとても楽しめる作品だと思います。ある若い女性が激しい恋をしながら大人の女性になっていくさまが、綿密に描かれています。舞台女優という職業柄、どうしても恋がないとすばらしい演技を続けられないのでしょう。最後は演技によって、自分自身を縛っていたしがらみを振りほどいていく。それが描かれています。

主人公ジュリアはイギリスの大女優です。その大女優は、イギリス一の美男子との呼び声高いマイケルと結婚します。しかし、美人な彼女は、たくさんの魅力的な男性たちに言い寄られ、多くのアバンチュールを経験します。その中でトムという若い男性にぞっこんになります。

しかし、トムはまだ若く、彼も別の女性に惹かれ…で、トムに嫉妬してジュリアは大変なことになります。最終的にはトムに振られ、失恋期間を過ごすことになり、そのときに支えてくれたのがマイケルでした。

それまでマイケルとは良好な関係とは言えず(最近よくある中年離婚しかけの夫婦ですね)、マイケルを疎ましく思っていました。しかし、マイケルは長年なんだかんだジュリアをずっと見てきただけあって、優しくジュリアを慰め、ジュリアを再び舞台に立たせることになります。マイケルはちなみにトムやその他の男性とのアバンチュールには気づいていないように描かれています。

個人的には最後のほうでジュリアが立ち直って、舞台上でトムの惹かれた相手を熟達した女優の力量でコテンパンにしてしまうシーンが好きで、スカッとしました。終わりがとてもスカッとする小説です。サマセット・モームは本当にストーリーの進め方がうまいですね。次もまた読んでみようと思いました。

劇場 (新潮文庫)

劇場 (新潮文庫)

読了後、精神年齢が少し上がる(かもしれない)――『月と六ペンス』

買ってしばらく経ってしまっていましたが、ようやく読み終えました。あまりに有名すぎる本。サマセット・モームの本。「六ペンス」とは富の象徴で、その意味かと思ってWikipediaを開いてみたら、そうじゃないらしいです。月とは夢のことで、6ペンスとは現実のこと、だそうです。そういえば Sixpence None the Richer というアーティストがいるけれど、その6ペンスとは意味が違う模様。たしかに、と本書を読了してから思いました。

Sixpence None the Richer は Kiss Me という名曲がありますね。この曲も、中に moon light とか月に関連する詞が出てきて、もしかしてこの本と関係ある?と思うかもしれませんが(げんに、読む前は思いました)、読了後わかるとおり無関係のようです。


Sixpence None The Richer - Kiss Me (Official HQ)

この本は、とくに若い女性に読んで欲しいです。とくに、恋愛経験の少ない女性に読んで欲しい。あるいは、最近男に傷つけられた女性にも。そして何より、男心がさっぱりわからない女性に読んで欲しい。女心もなかなか難しいですが、それと同じくらい男心というやつも難しいです。反故にするとすぐに女は捨てられます。その際、男のほうがより残酷に捨てると思います。そのことがよくわかります。

男心の核心をひとことで表すというのは愚かな行為かもしれませんが、誤解を恐れずにひとことで表すなら、「放っておいてくれ」ということです。男はプライドの高い生き物で、自分の世界をあまり干渉されたくない生き物です。それはストリックランドの振る舞いを見ていればわかるでしょう。自分の世界とはどういうことかというと、自分の理想です。それを失った時、あるいは邪魔をする女が現れた時、「放っておいてくれ」という気持ちになるのです。

それはすでに結婚した妻に対してでも容赦ないときがあります。女も確信を持つと突っ走って人のいうことを聞かなくなる傾向にありますが、男も同じなのです。ただ男と女とで唯一違うところがあるとすれば、女は多少の情を持って「捨て」ますが(それが「距離を置く」なんていう行為になって現れる)、男はバッサリと切り捨てます。情よりも自分の理想が優先されます。ストリックランドを見ているとわかると思います。

男の生きざま、というやつは次の一節によく描かれています。そして、それは多くの女性の感覚とは相容れないものだと思います。だからこそ、男女はどこまでいってもわかりあえないのです。いうなれば、別の惑星から来た生き物なのです。

安定した生活に社会的価値があることも、秩序だった幸福があることもわかっていた。それでも、血管をめぐる熱い血が大胆な生き方を求めていたのだ。安全な幸福のほうにこそ、空恐ろしいものを感じていた。心が危険な生き方を求めていた。

一方で暖かい家庭を持ちたいと思いながら、他方では仕事で成功を収めてお金をたくさん稼ぎたい、という矛盾した願いを抱いている人間がいるものです。もちろん、男女問わずです。人間とは本来矛盾した存在であり、気まぐれで、一筋に説明することが難しい存在でもあります。

サマセット・モームはそんなことはお見通しで、次の文章を本書の中に残しています。

わたしはまだ、人間がどれだけ矛盾に満ちた生き物なのかわかっていなかったのだ。誠実な人間にも偽善的な面は多くあり、上品な人間にも卑しい面は多くあり、また罪深い人間にも多くの良心がある。

そんな難しい存在に対して、自分の小さな色眼鏡でもって人を判断しようとするから、その人の一言で勝手に傷ついて心を閉ざす。そもそも人と接する際の前提が間違っています。「そういう人なんだ」というくらいの心持ちで他人には接しないと、精神がいくつあっても持ちません。

普段は優しい人でも、突然怒りたくなることだってあります。小さなことにムッとします。一方で、怒りっぽくて常にイライラしている人でも、優しい面を持ち合わせていたりします。誠実そうに見えて、意外に浮気症という人もいるくらいです。人間、ひとつのカテゴリに収まらないくらいいろんな性格を持った人がいます。

そういうことを教えてくれるという点で、この本は読み終えると精神年齢が少し上がるかもしれない。そんなことを思いました。

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)